『教育における「足りなさ」の重要性』(乙武 洋匡・渡辺 道治著)は、教師としての経験を持つ、乙武洋匡さんと渡辺道治さんの対話の中で、「足りなさ」にフォーカスを当てた教育現場での実践ケースや感動のエピソードが語られます。
今回は本書から一部抜粋し、乙武さんが小学校教師時代に、自身の「できないこと」をあえて子どもたちに見せることで彼らに何を伝えようとしたのか、そして水泳指導で起きたエピソードについて紹介します。
乙武さんは「できないことがたくさんある教師」だった
今がどうかはわからないですが、私が教員をしていた当時、教師は子どもたちの前では何でも知っている、何でもできる存在であらねばならないという固定観念が強かった時代でした。にもかかわらず、私は赴任して最初の始業式で「先生にはできないことがあります。そのときには助けてください」と言いました。実際、できないことはたくさんあるのです。
たとえば、給食の牛乳ビンのフタを開けること。牛乳キャップは、爪がないと開けられません。だから、手のない私にはどうしても開けることができない。
最初の数日こそ補助教員の先生が開けてくれていましたが、数日したら子どもたちが毎日開けてくれるようになりました。給食の配膳も最初のうちは補助教員の先生がやってくれていましたが、それも子どもたちがやってくれるようになりました。
障害者が教員になるというのはあまり聞かない話ですし、「自分のこともできないのに子どもの世話なんて」という声も聞こえてきそうです。
しかし、教師とは保育士ではなく、「教育者」です。教員が物理的にできないこと、まさに本書のテーマである教師の「足りなさ」を子どもたちが埋めてくれていました。
もちろん、私だってそこに対して最初から開き直ることができるほどの傲慢さはもち合わせていません。他の先生と同じようにしてあげられないことの不安や申し訳なさは、最後まで拭い去ることができませんでした。
ただ、教師に障害があろうがなかろうが、「教員とは完璧な存在である」という呪縛から逃れたほうがいいと思っています。
教師にだってできないこと、知らないことはあります。そうした「教師の足りなさ」を真摯に受け止めて、きちんと調べて回答して、またその子とディスカッションするほうが、よほど教育的だと思っています。
乙武さんが泣いた水泳指導のエピソード
私は自分でできないことがあっても、できる子に見本を見せてもらったり、できない部分を手伝ってもらったりというスタイルを基本路線にしていました。しかし、時には自分のハンデを生かし、「障害がありながらも果敢にチャレンジする姿を見せる」ことで教育的効果を狙うこともありました。
それは、毎年夏に行われる水泳指導の時間です。
クラスにはどうしても水泳が苦手な子は必ずいますよね。私にはそういう子の気持ちが痛いほどよくわかります。
というのも、私自身、プールの中で足が立たないので、子どもの頃からプールが大嫌いでしたし、水に対する恐怖心というのは人一倍ありました。
私が担任しているクラスにも、どうしても水に顔をつけることができない男の子がいました。私自身は水泳の授業で水の中に入って指導することはできなかったので、そんな自分がプールサイドから、「がんばれよ!」なんて声をかけるのもなんだか白々しいなという思いがありました。
どうしたらいいのかと悩んだ結果、クラスの前で「今年もまたプール指導が始まります。今年の夏は先生もみんなと一緒にプールに入ります。そして、がんばって5メートルを泳ぎます!」と宣言しました。
泳ぐには手をかき、足を動かすことで生まれる推進力が必要なので、私のような短い手足を動かしたところで何の推進力も生まれないのです。
だから、5メートルという距離は、健常者の方からしたらわずかなものなのですが、この手足のない私からしたらかなりの距離です。
小学校卒業以来ですから、約20年ぶりにバッシャーンとプールに入って、5メートルを目指して水中で一生懸命にもがき、体をくねらせました。
そうした姿を見たからかどうかはわかりませんが、その後、水が苦手だった男の子は、一瞬だけパッと水に顔をつけてくれました。その後も、もう1回、また1回と顔をつけてくれて、水につけていられる秒数が少しずつ長くなっていきました。
3秒、4秒、そしてついに彼が5秒間も顔を水につけられたときは、クラス中が大喝采でした。私は3年間という任期付きの教員だったのですが、退職した次の夏に彼から暑中見舞いが届きました。
「先生、ぼく、5メートル泳げるようになりました。来年は6年生なので、25メートル泳げるようにがんばります」と。
もう、号泣ですよね。
この水泳は例外的なケースです。私の「足りなさ」を利用して、「それでもやってみる」という背中を見せることで子どもたちに何かを感じ取ってもらえればという指導でした。
私には他の先生方が当たり前にできることができないという負い目もあったので、「ならば私にしかできない手法で子どもたちに何かを伝えられたら」という思いも正直ありました。 乙武洋匡(おとたけ ひろただ)プロフィール
1976年生まれ、東京都出身。早稲田大学政治経済学部卒。大学在学中に出版された『五体不満足』が 600 万部を超すベストセラーに。 卒業後はスポーツライターとして活動。その後、小学校教諭、東京都教育委員などを歴任。地域に根差した子育てを目指す「まちの保育園」の経営に参画。2018年からは義足プロジェクトに取り組み、国立競技場で117mの歩行を達成。ニュース番組でMCを務めるなど、日本のダイバーシティ分野におけるオピニオンリーダーとして活動している。
渡辺道治(わたなべ みちはる)プロフィール
2006年北海道教育大学卒。元小学校教員。2013年JICA教師海外研修にてカンボジアを訪問。2016年グローバル教育コンクール特別賞受賞。2017年北海道札幌市公立小学校にて勤務。国際理解教育論文にて東京海上日動より表彰。2019年ユネスコ中国政府招へいプログラムにて訪中。JICAの要請・支援を受けSDGs教材開発事業としてラオス・ベトナムを訪問。初等教育算数能力向上プロジェクト(PAAME)にてセネガルの教育支援に携わる。2022年から愛知県における新設私立小学校にて勤務。2023年からはアメリカ・ダラスにある学校「Japanese School of Dallas」の学習指導アドバイザーに就任。