キャンセルカルチャーの危険な錯覚
筆者は以前、有名人を苛烈に批判している人たちに話を聞いたことがあります。彼らには共通点がありました。それは自分のやっていることを正義だと思い込んでいる点です。そこには危うい錯覚があります。
標的にした人に過激な批判を加え、降板や休業に追い込むことで、本人は何かを成し遂げたつもりになっているのですが、それは大きな錯覚です。単に相手をおとしめただけで、自分自身は何も達成していないし、何も成長もしていないからです。自分の気にくわない人に攻撃を加え、相手を困らせたに過ぎず、自分自身は何の進歩もしていないのです。
ちなみに江藤前大臣の「売るほどある」という発言の言葉尻をつかまえて痛烈に批判していた人がいましたが、胸に手を当てて考えれば、何かをたくさん持っていることを「売るほどある」と言ったことが人生で一度や二度はあるのではないでしょうか? 少なくとも筆者はたびたびこの言葉を使いますし、筆者の周りでも普通に耳にします。
あえてこんな表現を使えば、“そんなこと”に国民が気を取られているすきに、消費税減税や基礎年金の底上げなど、重要な問題が骨抜きにされかけました。
キャンセルカルチャーが招く“不公平な罰”
キャンセルカルチャーはほかにも深刻な影響をもたらします。それは、相手の「罪」の重さと「罰」の重さがフェアではないということです。例えば上述の不倫した芸能人には仕事を失うまで批判が殺到したのに対し、同じく不倫した国民民主党代表の玉木雄一郎議員に対しては、大した批判は向けられませんでした。
国民に何の実害も与えていない芸能人が仕事を失い、国民生活に直結する仕事をしている玉木代表はセーフというのも、あまりに不公平ではないでしょうか?
正しく適切に批判することの必要性
仮に本人に非があったとしても、過剰な処罰感情によるキャンセルカルチャーにどこかで歯止めをかけないと、人権が不当に侵害される世の中になってしまいます。一度でも間違いを起こした人が生きていけないような社会は、誰にとっても生きづらい社会です。そんな社会にしないためにも、正しく適切に批判することを覚えていかなければならないと、自戒を含めて強く思います。