
文部省官僚で私立高校に教師として派遣された御上孝(松坂桃李)の“奇妙な言葉遣い”が話題を集めています ※画像出典:TBSテレビ 日曜劇場『御上先生』 Webサイト
作中で自ら「霞ヶ関文学」と語る通り、奇妙な言葉を官僚はしばしば用います。単語は明瞭であるにもかかわらず全体として意味不明で滑稽なことから、かねて「官僚文学」などと揶揄(やゆ)されてきました。これに似たものとして「永田町文学」もあります。
これらは一体何なのでしょうか。
霞ヶ関文学とは
『御上先生』で御上孝が口にする言葉にこんなものがあります。※筆者の聞き取りなので一字一句正確ではないかもしれません「僕の記憶が確かなら」
「不徳の致すところです」
「これ以上はお答えできません」
これらの言葉遣いに違和感を持つ人は少なくないようです。「血が通っていない」「まるでロボットのようだ」というのもその通りでしょう。こうした言葉遣いを作中で御上孝も「霞ヶ関文学」(「官僚文学」と呼ばれることも多い)と呼んでいます。
霞ヶ関文学といっても、そのような文学ジャンルはありません。官僚が使う言葉が揶揄されてそう呼ばれているだけで、彼らが働く省庁が霞ヶ関にあることからその名が付けられました。
霞ヶ関文学の“目的”
霞ヶ関文学の目的は1にも2にも「責任回避」のためです。表向きは物事を円滑に進めるためということになっていますが、何かハッキリしたことを言って責任を追及されないよう、いかに逃げ道を残すかに神経が使われています。書類などに書かれた文章の場合は、どうとでも解釈できる表現を用いたり、核心を突かれないよう不自然なほどに曖昧な表現を用いたりするのが特徴です。
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