「カリスマ性」と「モラハラ気質」は紙一重? 違いを見分ける方法とは
<目次>
「カリスマ性」と「モラハラ」の定義は?
そもそも「カリスマ性」とは何かというと、一般的な人とは違う能力を持ち、多くの人を魅了する素質のことです。「神がかっている」と思わせるような才能から、人々に「この人についていきたい!」と思わせるところがあるのです。一方、「モラハラ(=モラルハラスメント)」は、言動によって精神的な暴力をして、相手の人格や尊厳を傷つける行為のことをいいます。要は、“モラル(道徳や倫理観)に反する嫌がらせ”です。
「カリスマ性」と「モラハラ気質」が紙一重だと言われる理由
「カリスマ性」と「モラハラ気質」は全く意味が違いますが、紙一重だと言われるのはなぜなのかと言うと、「一見、カリスマ性があると思われる人が、モラハラをしやすいところがある」からです。どんな人を「カリスマ性がある」と感じるかは人それぞれ。1つの能力がずば抜けて優れている人なのか、それだけでなく人格も伴った人なのか。「“中途半端なカリスマ性”を持っている人」は、ある能力には長けていても、性格の面では自己中心的で幼いこともあります。
その場合は、自分の非を認められず、他の人のせいにしたり、自分の才能に魅了されている人たちを思い通りに動かそうとしたりするところがあり、モラハラ的な言動をしやすいところがあります。
だから、「精神が成熟していないが、ずば抜けた能力のある人」には、注意が必要。ただし、そういう相手を「カリスマ性がある」と思うかどうかは、人それぞれです。
「力を使うベクトル」の違いで見分けるべし
モラハラ気質のある人にひっかからないためにも、私たちは「人の本質を見る目」を持つことが大切です。「人格が伴ったカリスマ性のある人」と「能力はあるけど、モラハラ気質の人」は、“力強さがある”という点では似ていますが、両者は「力を使うベクトル」が違います。前者は、状況をいい方向に向かわせるために力を使いますが、後者は、利己的な目的のために力づくで(無理に)人を従わせようとします。前者の言動には周りの人への感謝や愛が伴っていることが多いのですが、後者の言動には冷たさや自分勝手なところがあるのです。
さらに、前者は、精神的に自立していて、1人でも輝くことができますが、周りの人が放っておかない状況だから、人が集まります。逆に、後者は依存気質で、自分が快適になるために人を利用するところがあります。知恵が働く分、相手の弱みや欲望がかきたてられる部分を把握し、「“飴と鞭”による支配」によって離れさせないようとするところがあります。
だから、気弱な人ほど、モラハラ気質の人と縁ができやすい傾向があるのです。
“人任せ”な心が「モラハラ気質の人」を引き寄せやすくする
精神的に自立している人は、「モラハラ気質の人」にはひっかかりにくい傾向があります。それは、むやみに「カリスマ性がある人」を求めないからです。「カリスマ性のある人」を求める人は、残念ながら“人任せ”の思想を持っていることが多いもの。「自分ではどうすることもできないから、どこかからスーパーマン(スーパーウーマン)が現れて、この状況をどうにかしてほしい」と考えている人は、一見、「力強さがあり、耳障りのいいことを言う人」が目の前に現れると、「救世主が現れた」と勘違いして、相手の本質を理解しないまま、崇拝してしまうところがあるのです。
私たちはもっと主体性を持ち、自分の力を信じることが大切。そうしたら、むやみにカリスマ性のある人を求めたり、モラハラ気質の人にひっかかってしまったりしにくくなるのです。
結局、モラハラ気質の人にひっかかってしまうのは、相手が悪いだけではなく、自分の中にある依存心や気弱さが原因であることも。人の本質を見る目を養い、もっと自分の力に自信をもち、“自分で幸せになる力”を身につけたいものですね。