不意によみがえった「悪夢のような出来事」
引っ越すのは嫌だと渋る母を説得、とりあえず実家はそのままにして「少しうちでのんびりする気持ちで来てみて」と呼び寄せた。日当たりのいい部屋を用意した。チエコさんは週4回出社なので、昼間は母がひとりになることも多いが、朝晩の食事をともにするだけでも、母がどうしているかと不安にならずにすんだ。
「そのうち母も近所を散歩するようになり、顔見知りもできたりして慣れていきました。息子の友だちが来ることも多かったので、コーヒーとお菓子を出したりしてくれて。ちょっとした会話でも若い子と話すのが楽しかったようです」
いつから自分は母を遠ざけるようになったのだろう。そう考えたが思い出せなかった。だがある日、高校生の息子が「彼女」を連れてきたときに思い出したことがあった。
「夫はフランクな人なので、息子の彼女とみんなで食事をしようと。うちは息子たちが小さいころから、主に夫が性についてゆっくりじっくり話してきた。だから息子も、彼女ができたとき真っ先にうちに連れてきたんだと思います。彼女は、とっても明るくていい子。母も一緒に夕飯を食べて、その後、ふたりは息子の部屋で話しているようでした。
すると母が『部屋にふたりきりにさせちゃダメよ』と言い出した。今どきの子は案外しっかりしているから大丈夫よと流したんですが、母は息子の部屋の前に立ってる。それを見て、私、急に思い出したんです。自分が高校生のときのことを」
当時、チエコさんには付き合っている彼がいた。ある晩、自室で彼と電話でデートの約束をしていると、母が急に部屋になだれ込むように入ってきた。そして電話を取り上げ、「うちの娘を籠絡(ろうらく)しないで」と激しく言って切ってしまったのだ。
「何するのよと言ったら、『汚らわしい子だね』とものすごい目で睨んだんです。あとから知ったんですが、そのころ、どうも父に浮気疑惑があったみたいで。男女のことに妙に敏感になっていたんでしょうね。でも私は、それ以来、母への不信感が募って遠ざけるようになったんです」
リンゴをむく母の姿に「息が苦しくなった」
息子の部屋の前にいた母を促してリビングに連れ戻し、「私は息子を信用しているから」と話した。すると母は「ふん」と鼻で返事をし、「何か持っていってやろうかね」とキッチンでリンゴをむき始めた。「いらないわよ、リンゴなんてと言いかけると、母が包丁をもったまま『え?』と振り向いたんです。それを見て、自分の中で封じ込めていた記憶がいきなり蘇った。4歳か5歳のころかな、私、母に包丁を突きつけられたことがあるんです。理由はわからないんですが、包丁を持った母が迫ってくるところだけは覚えている。それが蘇ってきて、息が苦しくなって……」
気づくとキッチンで母から包丁を取り上げていた。何するのと言った母に「昔、こうやって私に包丁を突きつけたよね」と言うと、母は「おかしいんじゃないの、あんた。私がそんなことをするはずないでしょ」と背を向けた。
「でも私はしっかり記憶に残っています。怖くてたまらなかった。振り返ってみれば、あの頃から私は母に心を許したことがなかったんだと思う。高校生のときの電話の話から、一気に小さいころのことまで思い出して、母を心のどこかで信頼していなかった自分の気持ちがよくわかりました」
怖くて封じ込めていた自分の心が開いてしまった。このまま母と同居できるのか。チエコさんは新たな悩みと葛藤の中にいる。