婚姻届を提出したのに結婚を隠す素振り
3カ月後には婚姻届を提出した。その前に彼は遠方の彼女の実家に一緒に行ってくれたが、自分の実家には行かなかった。「もう大人だし、そのうちちゃんと紹介するからと言われて。彼の実家は都内だと聞いていたから、すぐにでも行けるのにおかしいなとは思ったんです」
初対面のときに一緒にいた友人には再度会わせてくれたが、それ以外の友人や知人には会っていない。サトエさんが自分の友人たちに会わせたいといっても、彼は「ちょっと時機を見てから」と消極的だった。
結婚したことを誰にも知られたくないのか、誰かに知られたら困るのかと彼に尋ねたこともある。自分の存在が否定されているようで、いい気持ちはしなかった。
「それでも新婚生活は楽しかったんですよ。彼とふたりだけの世界を築いている気がしました。でも数カ月経つうちに、だんだん閉ざされた世界にいるような気分に変わっていったんです」
週末など、彼女は友人に会うこともあったが、彼は人に会っている気配があまりない。平日も定時で帰ることが多いようだった。
「もちろんそのころは彼がどこに勤務しているかも知っていたけど、どういう仕事をしているのかはよくわからなくて。私が仕事の話をしても、あまり乗ってこないし。仕事には重きを置いていないタイプなのかなとか、もしかしたら会社で存在感のないタイプなのかなとかいろいろ考えてしまいました」
突然現れた意外すぎる人物たち
彼のマンションは賃貸だと聞いていたが、そのわりには立派な建物で、家賃を払えているのか、将来は住居を購入するつもりなのか、いろいろな不安も出てきた。「休日、彼とリビングでまったり映画を観ていたら、突然ドンドンとドアが激しく叩かれたんです。モニターで来訪者を見た彼の顔色が変わった。サトエちゃんはここにいてと言って彼は飛び出していった。外で怒号が聞こえました。気になって玄関から覗こうとしたら年配の夫婦と屈強そうな男性が無理矢理入ってきたんです」
それは彼の両親と、ボディガード代わりのいとこだった。彼はとある会社の御曹司で会社の跡取りとなるべく修行中で、すでに婚約者もいたのだという。その人との結婚は双方の家業にメリットが大きいもので、すでに幼少期に親同士が決めていた。それが嫌なのに嫌と言えないまま、サトエさんと婚姻届を出したために結婚の事実さえ公表できなかったのだ。
「だけど近所の人から噂になって、彼のいとこが何日もかけて張り込んた結果、私と結婚したらしいことを突き止めたそうです。彼は『オレはサトエと結婚したんだ』と泣きながら言っていました。親に反抗したのは初めてなんでしょうね。母親は号泣して、『あんたはそんな子じゃない。お母さんを裏切らないで』ってすがりついていました。最初はびっくりしたんですが、そのうち安っぽい芝居を観ているような気分になって……」
彼女はその場で「どうするつもりよ」と彼を追いつめた。彼は泣きながら「ごめん」と言った。結局、実家や親を振り捨てることはできなかったのだ。
「情けないなあと思ったけど、そういうふうに育ってしまったのだからしかたないんでしょうね。同情しつつ、私は自由をとると彼に伝えて家を出ました」
あとから離婚届が送られてきて、慰謝料も支払われた。突然の引っ越しを余儀なくされたので、その慰謝料は引っ越し代に使ったという。余ったお金は、コロナ禍前に海外旅行で使い果たした。
「結婚が家と家のものだと思っている人たちが今もいることにも衝撃を受けましたし、そのためにひとりの人間の存在を消すような真似ができる、彼みたいな人がいることもショックでした。私は彼が御曹司だから結婚したわけじゃないのに」
結婚という制度は自分には必要ないのかもしれない。いや、“普通の”人となら結婚してもいいかも、と彼女はあの衝撃から抜けきれないまま、今も揺れている。