どうしたいのかがわからない
最初は娘の部屋をドンドン叩いた。部屋の鍵を壊して室内に入ったこともある。娘はナイフを自分の喉につきつけ、「こっちに来たら死ぬ」と叫んだ。夫が「もういい」と止めた。「修羅場でしたね。そんな日が続いて、私も疲れてしまいました。『いてもいないと思えばいい』と長男に言われたこともあります。でもあの優秀な子が、という気持ちがどうしても拭い去れない。次女は『それがおねえちゃんの重荷だったのよ』って」
家にいても、2階の娘の部屋から物音がしないか必死に聞き取ろうとした。そんなとき、テーブルの上に「ひきこもりの子をもつ親の会」のチラシが置いてあった。次女がどこかからもってきたらしい。うちだけではないのかとチラシを見たが、足を運ぶ気にはなれなかった。専業主婦として、家族の健康と子どもたちの幸せを願ってきた自分が、間違っていたとは思いたくなかったのだろう。
「結局、このとき一番力になってくれたのは、折り合いの悪い次女でした。次女は『おかあさんが家にいたら、おねえちゃんはずっと階下からの脅威を感じる。少し家を出てみたら』と言ったんです。以前は趣味の習い事をしていたんですが、カオルがああなってからは行かなくなっていた。だから思い切って習い事を再開しました。その間だけでもカオルのことを忘れていられる」
ときどき友人にも会った。長女のことは誰にも言えなかったが、それでも少しは気が紛れた。そして次女につきそわれて親の会にも行ってみた。
チカコさんが家にいないと、カオルさんは階下に降りてきてお風呂に入ったり何か食べたりしているようだ。それまでは三食、カオルさんの部屋の前に食事を置いていたのだが、食べたり食べなかったりだった。
「私がいなければ自分で作るのか。そう思ったので、なるべく外に出るようにしました」
夫婦ふたりと2階の娘で暮らす日々へ
時間が流れ、次女は就職で遠方へ、長男は地方の大学へと旅立っていった。夫婦ふたりと2階の娘との暮らしになって2年がたつ。「どうやらカオルは次女とはときどきLINEなどでやりとりしているようです。次女が親と話してみたらと説得してくれているようですが、なかなか……。私もどうやって声をかけたらいいのかわからなくて。せめて言いたいことがあるなら言ってほしいんですが」
チカコさん自身、自分が長女にプレッシャーをかけていたことを、まだ認められないままなのだ。普通に育てただけだ、子どもたちのために仕事を辞め、いい母親になるようがんばってきたと思っている。
「一度話そう、あなたの話を聞きたい。次女に促されたので、ドアの外からそう声をかけてみたんです。そうしたらか細い声で、『もう少し待って』と返ってきた。ほぼ10年ぶりに娘の声を聞きました。それだけで涙が出てきた。もっと早くにどうにかすればよかったのかもしれないけど……」
カオルさんもつらいはずだ。ひきこもっている本人は、親に申し訳ないと思っていることが多いし、自己否定も強い。
とにかく娘の声を聞き、言い分を聞く機会を作ったほうがよさそうだ。親の立場を振りかざさず、いかに人と人として話ができるか。そこから何かが始まる可能性は高い。