誰も幸せにはなれない事実を前に
夫に言うべきか、まずは妹なのか。混乱した頭でユリカさんはそう考えた。信じたくなかったが、妹の友人がわざわざ嘘をつく必要もない。事実を事実として受け止めるしかないとわかっていながら、どうしても認めたくなかった。「その日、夫が帰宅していつものように家族3人で食事をして。私はほとんど食べられなかった。夫は『具合が悪いの?』と私を心配して、後片付けを全部してくれました。翌日は娘が保育園にお弁当を持っていく日だったんですが、それも夫が準備してくれた。深夜になってようやく、私は妹の話をしました。本当なの、と」
夫はいきなり固まった。体も動かず、言葉も発しなかった。本当なのとユリカさんは3回くらい尋ねたという。
「『どう言ったらいいかわからない』夫の最初の言葉はそれでした。妹はコロナ禍で夫婦げんかが絶えなくなり、離婚したんです。夫によれば『離婚以前から関係があった』、と。『相談に乗っているうちにそういう関係になり、その後もすがりつかれて切れなくなってしまった。僕が愛しているのはきみと娘だけだ』と夫は言ったけど、その時点で私は吐き気が止まらなかった」
泣きわめき、吐き戻しながら……
この2年、夫は妹と関係を持ちながら、自分とも夫婦でいたのだと思うと、体が勝手に暴れ出した。泣きわめいて吐き戻しながら、彼女は手当たり次第に夫に物をぶつけた。そして意識を失って病院に運ばれたという。「頭がおかしくなってしまえばいい。記憶がなくなってしまえばいい。そう思いました。つらくて苦しくてたまらなかった。数日で退院はしたものの、夫の顔を見るとまたおかしくなる。娘は私を見て怯えていました。夫さえいなければ落ち着くはずだと思って、ひとまず出て行ってもらったんです」
妹に電話をかけて、罵声を浴びせた。それでも気持ちはおさまらない。
「夫は、謝罪の言葉とともに、会社近くのビジネスホテルに泊まるとメッセージを寄越しました。それからはずっと別居です。夫は小さなアパートを借りたらしい。ときどきメッセージが来たり、娘に会いに来たりはしているけど、私はあれからまともに夫と話し合っていません。夫の顔を思い浮かべただけで何度も気持ちが悪くなり、この1年で3回も入院しました」
故郷でひとり暮らしをしている母親には言えなかった。夫の両親はすでにこの世にはいない。夫の兄にぶちまけてみようかとも思ったが、さすがにそれはできなかった。
誰にも言えない
「誰にも言えません、こんなこと。ひとりで苦しみ続けてきた。妹には『二度と私の目の前に現れないで』と言ったきりです。妹の友人からの情報によると、子どものいない妹は、あれから行方がわからないとか。夫と妹が会っているかどうかも知りません」結局、あのときから1年間、自分はずっと同じ場所に立ち止まっているだけ。時間は流れて、娘も来年は小学校に上がるのに、自分だけは沼に脚をとられてもがいているだけだとユリカさんは泣いた。
夫はユリカさんからの問いかけを待っているのかもしれない。だが、彼女にはそうする勇気がない。もちろん、夫とやり直す気にはなれないのだが、かといって離婚する決断もできずにいる。
「ここまでショックを受けたこともまた、私にはショックなんですよ。もっと自立していると自分では思っていた。だけど夫の裏切りから半歩も先に進めない。夫に復讐したいとか、なんとか反省する姿を見せてほしいとか、そういうことも考えられない。ただ止まっているだけ」
それでもさすがに1年たって、気持ちが少し変わってきた面もある。「立ち止まっていることに気づいたのが進歩かもしれませんね」と自分を皮肉った。
「ようやく倒れなくなったし、食事もとれるようにはなりました。娘の精神状態が気になるようにもなった。その程度ですけど」
人は衝撃を受けたとき、まず自分のこととして受け止められないのだろう。それでも彼女が言うように時は流れていく。焦らず、でも少しずつでも日常を取り戻していくしかないのかもしれない。