1995年の阪神・淡路大震災で露呈した「災害とトイレ」問題
筆者が初めて被災地と大きな関わりを持ったのは、1995年の阪神・淡路大震災の時のことでした。雑誌社の記者だった当時、神戸市長田区の靴の会社に知人がいたため、取材ではなく片付けの手伝いと被災地支援のボランティアとして現地に入りました。発災数日後、ようやく現地と連絡がつき、電車が止まっていたためバスを乗り継いで長田駅までたどり着くと、駅前から数キロ先までは、さながら爆弾を落とされたかのような焼け野原。煙と混じってさまざまな異臭が漂う厳しい状況でした。
紹介された学校の避難所へ行くと、玄関付近ではかっぽう着やエプロン姿の女性陣が声を掛け合いながら元気よく炊き出しを行っており、勝手も分からなかった当時は言われるがままに荷物の移動や整理を手伝うことにしました。
その後の資料によると、神戸市は被災直後に全域で断水が発生し、地域へ水の供給が80%回復するまでに1カ月以上かかったといいます。各家庭はトイレの水を流すことができず、避難所や公園などにあるトイレに行って用を足すことになりました。
しかし、あっという間に汚物が山になり使用できなくなったため、被災者たちは側溝や空き地に垂れ流さざるを得ないという悲惨な状況でした。満タンになり使用不可となっているトイレも多く発生し、筆者も使用可能なトイレ探しに苦労したという記憶があります。
日本の災害史において阪神・淡路大震災は、人口の多い都市部で発生した初の大規模災害でした。避難所の仮設トイレも十分な備蓄を考慮できておらず、当時すでに100%水洗便所に切り替わっていた神戸市では、し尿処理をするための人員や各避難所を巡回するバキュームカーなどの配備も不足したというのが実情です。
この時、大規模災害の発生時には「被災者にまずトイレの問題が起きる」ということが初めて議論されるようになったのです。
2011年の東日本大震災で仮設トイレの数は増えたが……
2011年には東日本大震災が発生。すでに専門家として活動していた筆者は、親族が住む宮城県気仙沼市を訪問し、海岸沿いを中心に多くの避難所を視察して回りました。断水している地域では、避難所の仮設トイレを利用する目的で避難民だけでなく周辺地域から市民たちが車で集まってきて長蛇の列になっている様子を何度も目撃しました。
仮設トイレはさまざまな所に無数に用意されていて、以前に比べ少しは改善されていたように思います。ただ一時的に2000人を超える避難者が集まっていた避難所では、トイレのし尿処理や掃除が大変で、トイレの前にはバケツがずらり。交代でプールの水を汲んでくるのが一番大変だと、作業を担当していた中学生が言っていました。
2016年の熊本地震では車中泊避難で「自作トイレ」派も
2016年の「熊本地震」で最も大きな被害を受けた益城町では、主要な避難所施設も地震被害を受け、筆者はメディアスタッフと一緒に、急きょ移設された避難所などを訪れて取材しました。避難所は完全に人員オーバー。受付周辺やロビーにも人があふれ、空いているスペースには全てシートが敷きつめられ、足の踏み場も無いほどでした。駐車場は、入所者の車に加えて避難所に入れなかった家族が車中泊する車で満杯になり、周辺の道路や空き地、裏道に至るまで数百台の車に取り囲まれて出入りも難しい状態でした。
避難所に入れないとわかっていて、なぜ避難所近くにいるのか?
被災者に話を聞くと、まず一番に避難所のトイレが使用できるということ、また水や食料の配給がある時にすぐに並ぶ必要がある、避難所ならば医療スタッフが往診に来てくれる、などの理由を挙げてくれました。
この地域では、初めての車中泊だという人たちが「自作トイレ」を作っているのを何度も見かけました。市販の組み立て式非常用トイレの類を持っている人は一人もいませんでしたが、ある人はワンボックスカーの後部ドアを上げて天井にし、ブルーシートで壁を作り個室を作成、座面に穴を空けた椅子にバケツを組み合わせて家族用のトイレ部屋をDIYしていました。
その人は避難所の近くにいたのですが、聞けば避難所は並んでいるし間に合わないと困るので家族用に作ったとのこと。水洗トイレが使えないのは精神的にかなり辛いので「早く元の家に戻りたい」と語っていました。
東京のような都市部が被災したら、どうなる?
もしも東京のような都市部で長期に渡って断水が続いてしまうと、数百万人規模の「トイレ難民」が発生するかもしれません。水や電気などインフラは常に確保できるものではありません。断水や停電に備えた準備、非常用トイレの備蓄をすぐに用意しておきましょう。
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