「普通」にふるまうことに慣れていった
最初はビクビクしていたミエさんだが、そのうち職場とプライベートで自分を切り替えることを覚えた。職場では完璧に先輩と後輩として振る舞った。「もともと仲がよかったから、周りもそういう目で見てくれていた。マサトさんには冗談も言うし、みんなの前で仕事の相談もおおっぴらにしていました。ふたりきりになると、彼は『女は怖いなあ。きみの演技は超一流だよ』って」
会う約束は一度もしなかった。携帯電話で連絡を取り合い、いつでもアポナシで会った。1年たったころ、彼女は実家を出てひとり暮らしを始めた。彼の自宅は遠方だったので、会社から30分ほどのところにアパートを借りた。そうすれば彼が寄っていきやすいだろうし、残業のときは泊まっていってくれるかもしれないと思ったからだ。
「かわいい女心ですよね。でも思ったとおり、彼はときどき泊まっていくようになりました。それまでは帰宅できなくなるとカプセルホテルに泊まっていたみたいですが、うちに来るようになった。夕飯を作って待ったり、朝ご飯を一緒に食べて出かけたり。楽しかった」
それと同時に、彼と結婚したら毎日がこんなふうに過ごせるんだと思うようにもなった。次の瞬間、結婚なんてできるはずもないのにと思いを打ち消す。
いろいろなことがあった。彼の子が病気になったりケガをしたり、一緒にいるとき妻が具合が悪いから早く帰ってきてと電話を寄越したり。だが彼女は一度だって、彼を引き止めたこともないしわがままを言ったこともない。
「奥さんから電話が来たときは、ふたりで外で食事をしていたんですが、早く帰ったほうがいいと彼だけすぐに帰らせました。そういうことで寂しいとはあまり思わなかった。彼の家庭の内情を私は知っている。でも彼の奥さんは私の存在を知らない。そこに満足感があったのかもしれません。彼が家庭内のことを隠さなかったから、私は嫉妬もしなかった」
33歳で心境に変化、35歳で彼に伝えた気持ち
30歳になったときは、もう一生、このままの関係でもいいかもしれないと思っていた。それなのに33歳あたりから少しずつ気持ちが変わっていった。「それまでは彼のことが好きだから、彼が居心地よく過ごせるように、彼の気持ちを一番に考えるようにしてきたんですが、なぜか自分を優先させたくなったんです。私は本当に幸せなのか、10年後もこのままでいいのかと考えたら急に怖くなった。彼と別れるというより、いったんひとりになってこの先を考えたいと思ったんです」
35歳の誕生日を迎えて、彼が「何かほしいものがある?」と尋ねてきた。彼女は泣きながら「ひとりになりたい」と言った。彼は「どうして」とは聞かず、「わかった」と言い、彼女をしっかり抱きしめて部屋から出て行った。
「引き止めてほしかった。でも彼自身ももしかしたら、私との関係が負担になっていたのかもしれない。その直後、彼は異動願いを出して他部署に行きました」
関係はブツッと切れたままだ。あえて彼女が切った。あれから1年、新しい出会いはまだない。だが彼女は、以前から習いたかった日本舞踊を始め、仕事のスキルアップを図って頻繁にセミナーなどを受講するようになった。学生時代の友人たちとも会うようになった。
「この10年、いつでも彼優先で、私は自分のためになにもしてこなかった。結婚は縁と運だと思うから、できてもできなくもいいけど、せめて自分を豊かにするための時間をたっぷりとろうと考えています。少し寂しいけど、ある種の解放感もある。あのまま40歳になったら、私、きっと彼を恨んだと思うんです。自分が始めたことなのに。だからいちばんいいときに別れたんじゃないかと」
自分のための人生を、自分で決めた踏み出した彼女。彼への思いは消えてはいないが、日々、これでよかったんだと自分に言い聞かせているという。