母の絶望は加速して……
それから数日後のことだった。夜中にトイレに起きたジュンコさんは、玄関に父の靴を見つけた。「パパ、帰ってきてる、と居間に入っていくと、父と母が黙って座っていました。『パパ』と声をかけて近づくと、父は私を抱きしめ、『仕事の都合でパパはしばらく帰ってこられないかもしれない』と言ったんです。え、と絶句していると母が『違うわよ、ジュンコ。パパはよその女のために私たちを捨てるのよ』って。
父が慌てて『子どもの前で、やめなさい』と言ったけど母は止まらなかった。『若い女に子どもができたんだって。ジュンコだってパパの子なのに、パパはあなたを捨てて、別の女の子のパパになるんだって』とまくしたてた。父は『やめろって言ってるだろ』と、母の頬を打ちました。私はそれがショックで泣き出して。『あんたが泣かしてどうするのよ』と母は父に殴りかかって……修羅場でしたね」
彼女は自分の部屋に逃げてベッドに潜り込んだ。両親に何が起こっているのか、正確には判断できなかったが、ただ怖くてたまらなかった。
翌朝、母はむくんだ顔をしていた。ジュンコさん自身も寝不足のまま学校に行った。
「帰ってくると母はパートを休んだのか、ぼうっと座っていました。そして『ジュンコ、一緒に遠いところに行こうか』って。顔を見たら蒼白で目だけがギラギラして怖かった。私はあとずさりしたけど、母にがしっと抱きしめられた。そのまま母は私に馬乗りになって首を絞めてきたんです。やめて、と声を絞り出し、苦しかったので手足をバタバタさせて抵抗しました」
ふっと息がつけた。母の涙がジュンコさんの顔に落ちてきた。そのすきにジュンコさんは母の携帯電話をもって逃げ、母の姉である伯母に電話をかけた。伯母は母を見張っているようにジュンコさんに言いつけ、慌てて駆けつけてきた。
「それからどうなったのか、ちょっと記憶が飛んでいるんですが、気づいたら母方の祖母が来て一緒に暮らすようになっていました。母はその後も自殺未遂を繰り返した。よほどショックだったんでしょうね。でも私が中学生になるころには、だいぶ元気になって。その過程で、父の悪口ばかり聞かされて育ちました。祖母がいると制してくれるけど、祖母も仕事をしていましたから、母とふたりになることも多かった。母は何度も何度も父のことを悪く言っていましたね。『あんたは捨てられたんだ』というのも何度も聞いた」
父親の不倫よりもショックだったこと
父が不倫したことは、もちろん彼女には大きなショックだった。だがそれ以上に彼女を長く傷つけたのは、母の言動だったという。「いっそ、もうパパのことは放っておこう、ふたりで元気に生きていこうと言われたほうが傷は小さかったと思う」
その後、どういう話し合いがなされたのかわからないが、両親は離婚した。ジュンコさんの苗字は変わらなかった。
「高校に入ったとき、私から祖母に言って、母には内緒で父と会いました。父にはひたすら謝られましたが、私は謝ってほしいわけじゃなかった。父とはそれ以来、ときどき連絡を取り合っています。父が再婚した相手や、その子どもにも会いました。再婚相手に、自分の娘と私が似ていると笑顔でいわれたのが印象的でした。父も母といるより、あの人と一緒にいたほうが幸せかもしれないとも思った。母に精神的に依存されることで、私もけっこう疲れていたので、客観的に事態を見ることができたような気がします」
父の裏切りがあったのは確かだが、母がそうさせた面もあるのではないか。ジュンコさんはそうも考えている。ただし、夫婦の問題は娘であってもわからないとも理解している。
「まあ、私は被害者だとは思っています。父によって被害を受けたともいえるし、両親の関係性の問題による被害者でもある。でもそれを考えてもしかたがないんですよね、起こってしまったことは変えられない。大学で心理学を学んだのは、自分を救いたかったから」
そして今、彼女は大学で学んだことを活かして仕事をしている。ここ2年ほど付き合っている男性がいるが、「結婚」という形には二の足を踏んでいる。それもまた父の不倫の悪影響なのか、彼女が結婚に不向きだと自己分析している性格だからなのかははっきりしない。
「こうなったら、親が不倫をして家庭が崩壊したとしても、その娘は誰かといい関係を築けるんだと証明したい気もしますけどね。いい関係がイコール結婚というわけでもないので、私は私なりに幸せを見つけていこうと思っています」
社会人になってからひとりで暮らすようになった。数年前に祖母が亡くなり、還暦を過ぎた母はひとりで暮らしている。実姉とよく会っているようだ。ジュンコさんは母と物理的な距離をとったので、ときどき会っても優しくできると微笑んだ。