心を閉ざして生きてきたけど
進学校に通っていたのに、彼女は卒業後、就職することに決めた。しかも寮がある会社を選んで家を出た。「ところが上司が父に似ていたんです。冷たい物言い、決めつけて相手を断罪するところなど。私はうつ状態になって、入社2年で会社を辞めました」
その後はアルバイトをしていたが、このままだと父に負けると本来の負けず嫌いの性格が頭をもたげた。必死に勉強して希望した大学に合格、母方の親戚にお金を借りて学生生活を始めた。
「とにかく勉強とアルバイトの日々でした。そしてなんとか英語とスペイン語をマスターして貿易関係の会社に就職できました」
それまで恋愛などしたこともなかった。父のことを考えると、自分が男性を好きになることはないと考えていたそうだ。
「でも28歳のころ、仕事関係で知り合った2歳年下の人に交際を申し込まれたんです。もちろん断りました。私は恋愛には向いてないと思うと言って。そうしたら『恋愛に向いてなくてもいい。僕とプライベートで会ってくれればいいんです』って。それまでも男性の友人がいないわけではなかった。でも友だち止まりだからつきあっていられたんです。男女の関係になったら絶対、上下関係が出てくると想像していました」
それでも彼はあきらめなかった。「友人として食事に行きましょう」「友人として映画を観に行きましょう」と誘われ続け、彼女はとうとう根負けして出かけてみた。
「そうしたらなんだか楽しかったんです。映画を観て、帰りに食事をしながら感想を話したときも、ものすごくリベラルな見方をするんだなと驚くくらいでした。何かの話から、『男ってだいたい傲慢でしょ』と言ったら、『それはその男性によるでしょ』と言われて。私は父に代表される『男』を一括りにしていたと気づきました」
それからは彼を「個人」として見るようになった。すると彼の良さが次々と見えてきたが、彼女は心を許すことはなかった。
「彼と会うようになって1年ほど経ったころ、私が勤めていた会社が合併吸収されたんです。私は居残り組になったけど、それからはキツかった。合併の弊害がいろいろあったし、社内の雰囲気もよくなかった。仕事も2人分くらいしないといけない。彼はそんな話も聞いてくれたし、私が家事もできないと言ったらうちに来て掃除してくれたんです。私のために何かをしてくれる人がいる、しかも男性だと思いながら見ているうちに、彼への感謝が心の中にわいてきました。本当にありがとうと言ったら、彼が『感謝してくれてうれしい』と。こういう人もいるんだな、父にとらわれていた私の視野が狭かったとわかりました」
その後、さらに2年付き合い、この人とならやっていけると判断、彼女は結婚を決めた。32歳になる直前に結婚、一女に恵まれた。夫とは相変わらず対等な関係を育んでいる。
「あなたは本当に怒らないね、嫌味も言わないねと言ったら、『人を怒れるほど偉くないしさ、怒ることに意味があると思えないんだ』と。子育て中も、まったくイライラしたりしないのには感動しましたね。私がイラッとくると、『落ち着いて』と声をかけてくれる。まずは深呼吸してからものを言う癖がつきました」
親とはたまにしか連絡を取り合わず、娘の顔も見せていないが、夫は「いつかはマキコちゃんのご両親にも会いに行こう」と言ってくれている。
「夫と出会ってからのことを考えると、私の心は夫によって少しずつ柔らかくなってきたなあと実感するんです。夫には毎日感謝しています。こんな穏やかな結婚生活を送れるとは思ってもいなかった。今思えば、母もかわいそうだったけど、父もかわいそうだったなと。こんなにかわいい子どもと一緒に楽しむこともしなかったわけですから」
心が柔らかく溶けていったと語るマキコさんの顔は、本当に柔和な笑みに満ちていた。人は誰かに傷つけられても、違う誰かに癒やされることもある。頑なな心を穏やかに満たしてくれる相手に巡り会えるかどうかが重要なのだろう。