過度のストレスが原因で起こる記憶障害
あまりにも辛い経験をすると、強いストレスにより記憶障害を起こすことがあります
「吊り橋効果で記憶力が上がる?強い体験ほど忘れない理由」では、嬉しさや恐怖感などの感情の変化を伴う体験の記憶は強く残り、その仕組みの一部に神経伝達物質であるドーパミンが関係している可能性を解説しました。しかし、あまりにも大きな感情の動きがあったときは、逆に記憶障害が起こることも知られています。
普段の生活で感じる程度の軽いストレスであれば、自分自身で解消することも可能ですが、不意にあまりにも衝撃的な体験をすると、極度のストレスを生じ、自分一人では治すことのできない重い障害をまねくこともあります。阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件、米国同時多発テロ事件、東日本大震災などの被害者の中には、強いストレスのため心が傷つき、心的外傷後ストレス障害(post-traumatic stress disorder、略してPTSD)と呼ばれる疾患になってしまった方がいます。
PTSDになると、いつまでも続く不安感に襲われ、不眠症になり、記憶障害を伴います。PTSD患者でみられる記憶障害には、心に傷を負わせた出来事を覚えていないという場合と、思い出そうとしない場合があるようです。このような障害は以前から知られていましたが、疾患とは考えられず積極的な治療も行われていませんでした。近年悲惨な災害や事件の他、児童虐待などが社会問題となるにつれ、PTSDを疾患と位置づけ、きちんと治療するよう取り組むべきだと考えられるようになりました。今回は、なぜ辛い体験が記憶障害をもたらしてしまうのかを解説します。
PTSD患者の記憶障害は、海馬の萎縮が原因か
1995年アメリカ・エール大学医学校のJ・ダグラス・ブレムナー博士らは、ベトナム戦争に従事した退役軍人の脳に起きた変化を、脳撮像技術の一つであるMRIを使って調べました。その結果、PTSDでない人(22人)に比べて、PTSD患者(26人)では、海馬の体積が平均して8%減少していることが明らかになりました(Am J Psychiatry, 152: 973-981, 1995)。このとき、他の脳部位においては差がないことから、PTSDでは、脳全体ではなく、特に海馬で萎縮が起きると考えられました。翌1996年には、アメリカ・ハーバード大学医学部のタマラ・V・ガービッツ博士らが、7人のベトナム退役軍人のPTSD患者で追試を行い、戦闘に従事した頻度と海馬が委縮している度合いが比例することを報告しました(Biol Psychiatry, 40: 1091-1099, 1996)。
さらに1997年、上述のブレムナー博士らは、幼児期に身体的あるいは性的な虐待を受けたことが原因でPTSDを発症した成人女性患者17人についても調査し、海馬退席が平均12%も減少していることを報告しました(Biol Psychiatry, 41: 23-32, 1997)。
その後、同様な事例がたくさん報告されていることから、PTSD患者でみられる記憶障害は、海馬の萎縮と関係があると考えて間違いないようです。
そもそもストレスとは……外部からの刺激に適応するための反応
みなさんの中には、ストレスという言葉の意味をきちんと説明できる人は案外少なくて、よくわからないけど「嫌なこと、悪いことが重なって辛い」というときに「ストレスがたまる」などと適当に表現している方がいるかもしれません。ストレスと記憶障害の関係を深く理解するには、ストレスの本質をおさえておく必要があります。ストレスは、もともと物理学の用語で、外部からかかった力によって物体が歪んだ状態のことをさしていました。これを、アメリカの生物学者ウォルター・B・キャノンが、人間の体の仕組みを説明するために用い、その後カナダの医学者のハンス・セリエが発展させて、1936年に「ストレス学説」を唱えてから、今のような意味での「ストレス」という言葉づかいが広まったようです。
現在の医学や心理学の領域では、心や体にかかる外部からの刺激をストレッサーと言い、ストレッサーに適応しようとして生じたさまざまな反応をストレス反応と言います。このストレッサー、ストレスという言葉の使い分けは大切ですので、しっかりマスターしておいてください。よく「仕事がきつくてストレスだ」などと表現する方がいますが、誤りです。「きつい仕事がストレッサーだ」か「仕事がストレスの要因だ」と言えば正しいです。
私たちは生きている以上、外からの刺激に対して何らかの応答を必ずします。反応しないのなら生きていない、と言っても過言ではありません。なので、誰でもいつでもストレスは起きています。正確な意味で「ストレスフリー」などと言うことはあり得ません。ストレスは決して悪いことではないいうことをしっかり理解しておきましょう。
ストレッサーに抵抗しようとする神経やホルモンの働き
ストレッサーの刺激に対して、私たちの心や体が応じるときには、神経やホルモンが働きます。たとえば、会議で大切なプレゼンをしなければならない直前になると、緊張して心臓がドキドキしてきますね。これから活発に体や頭を使わなければなりませんから、それに備えて全身に血液をたくさん流すため、交感神経を活性化して心臓をさかんに動かそうとする反応がドキドキにつながっているのです。つまり、これから起こることに対して準備しようとしている証拠ですから、良いことです。多くの人が「緊張しちゃいけない」と考えがちですが、緊張することは決して悪いことではありません。しっかり緊張しておけば、本番ですぐに戦えるというわけですから、自信をもちましょう。
もう少し長い時間、緊張状態が続くときには、腎臓の上にある「副腎」という臓器から、副腎皮質ホルモンの一種である「糖質コルチコイド」と総称されるホルモンが分泌されます。このホルモンには、その名の通り、肝臓におけるグルコースの合成を促進して血糖値を上げる働きがあります。緊張状態が続くと、体がどんどんエネルギーを必要となりますので、それに備えてエネルギー源となる血糖を増やしておこうという合理的な反応とみなせます。
このように、緊張したときに、交感神経が活性され、副腎から糖質コルチコイドが分泌されているのは、ストレッサーに対抗して心や体を防御するためなのです。
しかし、ストレッサーが強すぎたり、長期間続いたりした場合には、心や体が耐えきれなくなります。この状態を私たちは「ストレスが溜まって辛い」と表現しているということです。
ストレス反応により神経細胞が死に、海馬が小さくなる流れ
ホルモンは、血流にのって遠くまで運ばれ、全身に様々な影響を及ぼします。詳しくは「「脳内ホルモン」は存在しない!神経伝達物質とホルモンの違い」をあわせてご覧ください。ストレス反応が続き、大量の糖質コルチコイドが分泌されると、脳にも影響します。とくに、海馬には糖質コルチコイドの受容体が存在しており、その信号を受けると、海馬の神経細胞は必要上に興奮して傷ついてしまいます。PTSDのような過度のストレス障害になると、神経細胞が次々と死んでいき、海馬が小さくなってしまいます。海馬が働くなった結果、記憶障害に陥るのです。
PTSDに伴う記憶障害は、自分を守るための「苦肉の策」か
海馬は、ストレスに対する感受性が高く、ダメージを受けやすいので、できるだけ過度のストレスが生じないように気を付けた方がよいことは言うまでもありません。その回避法は、様々なところで紹介されているので、あえてここでは述べません。むしろ、私は、脳科学を専門とする研究者として、どうして海馬がストレスに対する感受性が高いのかを考察して、この記事を締めくくりたいと思います。
みなさんは、辛い体験をしたときにそのことをずっと覚えていたいですか? 災害の悲惨な情景や、肉親から受けた暴言や暴力など……できるならそんなことは忘れ去りたいものだと思います。過度のストレス状態にあるとき、ホルモンの作用を介して、海馬の記憶システムをシャットダウンすることにより、嫌なストレッサーの記憶を残さない。そのようにして、自分を守ろうとする「苦肉の策」が、PTSDに伴う記憶障害なのかもしれません。