「脳内ホルモン」といったものは存在しない…広まった誤り呼称

脳内ホルモンは実在しない

何となく使われている「脳内ホルモン」という言葉。しかし実際には脳内ホルモンというものは実在しません

「脳内ホルモン」という言葉をしばしば見かけます。ある検索ツールで調べてみたところ、「脳内ホルモン」という言葉で38万件もの情報がヒットしました。「ドーパミン、セロトニン、ノルアドレナリン、オキシトシンという4つの脳内ホルモンが私たちの感情を決めている」といった解説や、「脳のシステムをコントロールしている神経伝達物質は、またの名を脳内ホルモンと言う」といった説明がされているようです。しかしこれらは脳科学者として見ると、とんでもない間違いです。何となくのイメージで「脳内ホルモン」という誤った言葉が広まってしまったことは、とても残念に思っています。

そもそも「ホルモン」と「神経伝達物質」は、全く異なるものです。わかりやすく解説します。
 

ホルモンとは? 血流を介して全身に送られる分泌物

内分泌とホルモンの定義については、実は多くの人が高校1年の「基礎生物」ですでに学習しています。

私たちの体の中で、分泌物の排出を行う細胞が集合して組織を形成したつくりを「分泌腺」といいます。そして、分泌腺には、外分泌腺と内分泌腺があります。皮膚の汗腺や胃腸内の消化腺のように、特別な管を備えていて分泌物が体外へと出て行くのが「外分泌」です。ちなみに、胃腸内の空間は、体の内部のように思えますが、実際には外の空気とつながっていますから、体の外に相当すると考えます。一方、分泌物が血液中に排出されるのが「内分泌」です。そして、内分泌される分泌物をホルモンと呼びます。つまり、ホルモンは、内分泌腺から直接血中に排出され、血流を介して全身に送られ、必要なところでその作用を発揮する分子のことです。

これらは生物を履修した高校生以上なら、全員知っているはずの知識です。これを思い出せば、「脳内ホルモン」といったものが存在しないことは、すぐにわかっていただけるかと思います。
 

ホルモンの発見と名前の由来……100年以上前に遡る歴史

ではホルモンとは何なのかを理解するために、ホルモンの発見と、どうしてホルモンと呼ばれるようになったのかの歴史をご紹介しましょう。

1900年ごろ、胃から食物が移動してくると、十二指腸内には自動的に膵液が出てくるということがすでに知られていました。しかしなぜそうなるのか、仕組みがわかりません。それを解き明かすため、イギリスの生理学者W・M・ベイリスとE・H・スターリングは、十二指腸の神経を切断した動物を使って実験を行いました。すると十二指腸の神経がないにも関わらず、同じ現象が起こったので、この反応に神経は関わっていないと考えました。次に彼らは十二指腸の粘膜をとってすり潰し、ろ過した抽出物を血液中に注射してみました。すると、膵臓から膵液が大量に分泌されたので、十二指腸の粘膜に存在する物質が膵臓に作用するのだろうということが推定されました。そして、分泌を意味するsecretionに因んで、この物質をセクレチン(secretin)と呼びました。これは1902年のことです。ちなみに、セクレチンは、当初あくまで仮想の物質でしたが、後に、実際に十二指腸粘膜の細胞中に存在し、刺激によって分泌されて膵液分泌を促すことが解明されました。

スターリングらは、「血中に分泌され、遠く離れたところの組織や器官へ運ばれて、微量で作用する物質」はセクレチン以外にもあるだろうと考え、それらをまとめて「ホルモン」と呼ぶことを提案しました。当初は「化学的伝令」と呼んでいたようですが、ギリシャ研究を行っていた古典学者の友人から、「刺激する」「興奮させる」の意を持つ古代ギリシア語の 「ὁρμᾶν(hormān)」を教えてもらい、1905年の講演で「ホルモン」という用語を使ったのが最初です。
 

意味を曖昧にしてしまう、便利な「カタカナ言葉」の弊害

私自身もそうですが、みなさんも新しいカタカナ言葉を使うことは多いと思います。最近では、例えば、「コンプライアンス」。会社などで問題が起きたときに「コンプライアンスを重視します」などと言いますが、その意味をたずねると「よくわからないけど、すごく大事なこと」などと曖昧な回答しかできない人が多いのではないでしょうか。

企業活動におけるコンプライアンスとは、きちんと法律を守り、社会規範に反することなく、公正・公平に業務遂行することを指します。ちなみに、私が専門とする薬学の世界でのコンプライアンスとは、処方された薬を指示に従って服用すること、すなわち服薬遵守のことです。どちらにも共通しているのは、「命令・要求されたことを承諾して守る」ことであり、これがコンプライアンスの真意です。

なぜ私たちは、ちゃんと「法令遵守」とか「服薬遵守」と言わないで、コンプライアンスと言いたがるのでしょうか。漢字とその読みで表現したほうが意味は通じやすいはずです。しかし、逆に言えば、意味が通じやすい方が面倒と感じる面があるのかもしれません。相手に直接的に意味が伝わり過ぎると、余計な心配をしなければならなくなります。特に私たち日本人は、いい物を買って渡すときにも、「つまらないものですが……」などと分かりにくい表現をしたがります。直接的な表現を避けて、互いに雰囲気を汲み取るというのが好き、もしくは楽なのかもしれません。

それと同じように、「とりあえずコンプライアンスと表現しておけば雰囲気は伝わるだろう」と考えて使っている人が多いのではないでしょうか。実は、多くのカタカナ語は、話し手も聞き手も本当の意味を理解していないのに、適当にごまかして伝えるのに便利な言葉として多用されています。そして医学知識でも、同じことが起こっていると感じます。その一つが、今回解説している「ホルモン」です。
 

ホルモンと神経伝達物質の違い……根本的に「伝え方」が異なる

脳の中のシナプスで神経細胞どうしが会話をするために使っているのは「神経伝達物質」です。神経伝達物質という用語はそんなに難しいものではないのですが、日常生活ではあまり使われませんから、分かりにくく感じる人が多いのかもしれません。その一方で、「ホルモン」という言葉には、何となく「体の中で分泌されている物質」というイメージがありますね。カタカナ言葉の効果として、自分も相手もあまり知らなくても、雰囲気だけ伝えるのに都合がよかったのでしょう。そのため「脳内神経伝達物質」という代わりに、「脳内ホルモン」という造語が生まれて広まってしまったものと思われます。

しかし、そもそも「神経伝達物質」と「ホルモン」は全く違うものですから、たとえ便利に思えたとしても、簡単に置き換えて言ってよいものではありません。間違いは間違い。雰囲気が伝わればよいという許容範囲を超えています。改めて、両者の違いを確認しておきましょう。

■神経伝達物質……素早く1対1で伝える
神経伝達物質は、2つの細胞が接近した隙間、すなわちシナプスで分泌されるもので、いくつかの特徴があります。まず、分泌される量が非常に微量です。そのため、細胞から出た神経伝達物質は、すぐ近くまでしか届きません。拡散してすぐに消えてしまうので、遠くには伝わりません。また、情報の伝達様式は、1対1で、速いです。1つの細胞が出した神経伝達物質は、もう1つの細胞だけにしか届きません。比較的近くに第3、第4の細胞がいたとしても、それらには伝わりません。すぐ近くにしか届かないということは、速く伝わることにつながります。

例えば、人がたくさんいる教室で、隣の友達だけに話したいと思ったらどうしますか? 周囲に聞かれないように、相手の耳元にできるだけ近づいて、ヒソヒソと小声で話しますよね。できるだけ近くで、小さな声で話すという方法によって、1対1で速く伝えることが可能になります。これが、まさに神経伝達物質のやり方です。

■ホルモン……少し遅くても、多くの対象に伝える
一方のホルモンは、上述したように、内分泌腺から出てくるとすぐに血液の中に入ります。血管は全身に張り巡らされていますから、血流にのって、ホルモンは全身に届けられます。なお、このとき細胞から放出されるホルモンの量は、大量です。全身にくまなく届ける必要があるからです。そして、血流にのって遠くまで到達するにはそれなりの時間がかかりますから、スピードは遅い方です。このようなホルモンの情報伝達様式は、ちょうど私が教壇に立って、マイクを使って講義をしているときの状態に似ています。大きめの声を出して、しかもその声をマイクにのせて、教室にいる学生全員に聞こえるように届けるわけです。

二人だけのヒソヒソ話と、大声でマイクを使って演説をする。両者は全然違いますね。また、ホルモンは全身に伝わるものなのに、それを脳内だけで働くとした「脳内ホルモン」という表現は、明らかにおかしいのです。
 

物質の違いではなく働き方の違い! 神経伝達物質とホルモン

もう一つ、神経伝達物質とホルモンの違いに関して、多くの人が誤解していそうなことがあります。高校の生物では「ドーパミンは神経伝達物質、インスリンはホルモン」のように教えられるかもしれませんが、これは厳密には正しくありません。

神経伝達物質、ホルモンという分類は、物質によって決まっているわけではないのです。

ドーパミンは、神経細胞に含まれる物質ですが、シナプスで極微量が分泌されて1対1の伝達に使われたときに「ドーパミンは神経伝達物質として働いた」と言います。しかし、まれですが、神経細胞に含まれるドーパミンが大量に放出され、すぐ血液に入って全身にまわり、遠くに離れたたくさんの細胞に作用することもあります。この場合には「ドーパミンはホルモンとして働いた」と言います。つまり、ドーパミンがどのように働いたかによって、神経伝達物質、ホルモンのどちらに属するかが変わるのです。

ですので、もし試験で「ドーパミンは神経伝達物質である」という文章の正誤を判別する問題が出たとすれば、これは正しくもあり誤りでもあり、判別不能の不適切問題になってしまいます。今の日本の高校教育では、この文章は正しいと教えているようですが、私自身が大学で試験問題を作るときには、そもそもこのような文章は出していません。

たかが言葉で、そんなに目くじらを立てなくても……。そんな声が聞こえてきそうですが、私は一人の科学者として、常にあいまいにせずに、物事の本質をとらえていきたいと思います。脳科学を正しく理解する第一歩として、正確に言葉を使うことにもぜひこだわっていただければと思います。
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