何をやっても虚しい
安倍首相が辞任を表明したことにより、昭恵夫人にも注目が集まっている。週刊文春には、スピリチュアルに傾倒するファーストレディのある種の欠落感が報じられた。
一般的にも、社会的に地位のある夫をもつ無職の妻という立場で苦しむ女性はいる。
自分には何もないと気づいて
小学校から私立の有名女子校に入学、エスカレーター式に大学までいき、卒業後はすぐに見合い結婚したチホさん(53歳)。彼女自身、父親は有名企業の役員で、親戚も有名企業の関係者ばかり。子どものころから家にはお手伝いさんがいるような家庭だった。
「こういう言い方をすると問題があるけど、母は変わった人でした。私、きょうだい4人なんですが、『私の功績は子どもをたくさん産んだこと。親戚の中でもそれで地位を築けた』なんて言っちゃうような人なんです。産んだって育てるのは人任せだから気楽だったのかもしれません。母親の愛情というものに接しないまま、私は大人になったんです」
大学を出て親に言われるがままに見合いをした相手は、8歳年上の会社員。もちろん、相手も経済界の実力者の息子である。身内には政治家もいたという。
「自分が育った家庭での延長が始まった感じでした。親にあてがわれたマンションで、通いのお手伝いさんがいて……。私は特にやることもない」
夫は多忙で、平日は家で夕飯をとることもない。家政婦さんが作ってくれた夕食をひとりでとる日々だった。
「たまに学生時代の友だちに会ったりはしましたが、就職した人もしなかった人も、みんな楽しそうに人生を謳歌している。私には何もないと当時から思っていました。夫に働きたいと言ったこともありますが、すぐに実家から連絡がきて『働きたいなんて言うな』と父に叱られました」
自分の家だけが世間と違う。そんな思いで、カルチャーセンターを渡り歩いたりエステに通ったりする日々を送っていた。
30代で子どもをあきらめて
結婚すれば子どもができると思っていたというチホさん。だが、夫婦生活が極端に少ないこともあり、子どもには恵まれなかった。「周りはやいやい言いましたけど、結婚してから2回くらいしかしてないんですもん、できるはずがありませんよね。ただ、それは自分の実家にも夫の実家にも言えなかった。子どもはまだかとよく言われたけど、うちのきょうだいもみんな結婚して、それぞれ子どもがいましたから、いつしか私のことは忘れられていったみたいです」
ただ、義父母はおりにふれて孫を見せてほしいと言い続けた。チホさんが産みたくないと言っていると夫側の親族に責められたこともある。その現場に居合わせた夫は、チホさんをかばってはくれなかった。あとからこっそり「気にしなくていいからね」と言っただけだ。
「その場で言ってくれればいいのにとは思ったけど、結婚して数年で、私は夫をあきらめるようになっていたので腹は立ちませんでした。腹が立つほど期待していなかった。夫は公の場で夫婦同伴というときに隣に“妻”という立場の女性がいればいいだけ。既婚というのがひとつの肩書きだったんでしょう。悪い人ではなかったけど、女性とのコミュニケーションをとるのが苦手なのかもしれません」
30代になると、チホさんは早々と子どもをあきらめ、夫をあきらめ、「時間つぶし」になることを求めるようになった。
「いろいろなボランティアをしました。病院で入院患者さんのお手伝いをしたり、ピアノが弾けるので高齢者施設でお聞かせしたり。夫からは毎月末に翌月の私のスケジュールが渡されるんです。パーティなど一緒に行かなければならない日程がわかる。それ以外は何をしても文句を言われたことはありません」
ボランティアのつながりができて、地方へもよく出かけた。バザーを主催したこともある。奉仕活動に必死になっても、どこか虚しさが残った。
「それでも若かったので、目の前のやるべきことを見つけてはがんばっていたんです。長男の嫁として、義父母がどこかへ行くときについてきてほしいと言われればついていったし、夫があまり出たがらない親戚との集まりにも出かけていきました。でも外を向いても内を向いても、私が本当に求められている場所がないと思うようになりました」
もともと飲めるタイプだったため、居酒屋やバーに入り浸ることもあった。それなりに楽しかったし、知り合った人と恋愛に発展したこともあったが、やはり自らの場所に戻るしかなかった。
「好きな人と駆け落ちしようかと悩んだこともあります。だけどできなかった。私自身、とらわれの身のような生活から抜け出せなかったんです」
だが50歳の誕生日を迎えたとき、何かが彼女の中でキレたという。
「人生、まだ時間があると突然、思ったんです。私は私の道を見つけるべきなのではないか、と。義父と実母が立て続けに亡くなり、人生、いつ終わるかわからないと思ったのがきっかけかもしれません。誕生日の翌日、身の回りのものを持って家出しました」
家出して初めて、自分ではアパートを借りることすら大変だと知った。夫にすがるのは嫌だったので、唯一、良好な関係にあった従兄弟に頼み、彼の名前で借りてもらった。
「小さなアパートに住んで、近所のスーパーでアルバイトを始めました。自分で買い物をしてささやかな夕飯を作って。でも料理なんてほとんどしたことがないからスマホでレシピを見ながら作っては失敗していましたね」
バイト先のスーパーで友だちができた。その人は夫の愚痴をこぼしたりケンカしては嘆いたりしていたが、週末、仲良く買い物をしているのを見かけた。
「こういうのが人間関係なんだなあとしみじみ思いました。私は子どものころから自分が思っていることをきちんと話す癖がついていなかった。夫もたぶん同じなんですよね。たいした家柄でもないけど、そういうものに家族中が縛られていたんだと思う」
離婚を望んでいたが夫は拒否。夫人同伴の現場には、「妻は闘病中」ということにしてあるようだ。
「アルバイトの収入では暮らしていくこともできず、結局、夫から毎月いくらかの振り込みがあるので生活費として使わせてもらっています。今になって、経済的に親や夫に依存していた人生なんだとよくわかった。精神的にはひとりでも大丈夫なんですが、私は誰からも求められていないんだなという気持ちも強くなってきて……」
周りからは「子どもももたず、好き勝手な人生を送ってきた」と思われているかもしれないと彼女は苦笑した。お金はあっても愛を知らずにここまできた、とも。彼女の虚しさが埋まる日は来るのだろうか。