愚痴って言っちゃいけないの? 仏教における愚痴
愚痴っぽい自分に気づいたら・・・
仏教における「愚痴」は、「文句を言うこと」ではなく、「愚かなこと」という意味になります。
仏教では悟りにほど遠い、こうした愚かな状態のことを「無明」と表します。「無明である」ことは、表面的なことに惑わされて、物事の真理・本質が見えていない状態、のこと。つまり、「愚痴を言っている間は真理に気づけない」ということです。
”こぼれた”愚痴は、誰かが拾っている
よく「愚痴をこぼす」と言います。その”こぼれた愚痴”は、誰かが”拾う”ことになります。愚痴を拾う人=話を聞いてくれる相手です。相手が愚痴を聞き流してくれる人ならいいでしょうが、うまく聞き流せない人にはストレスになってしまうことも。
「聞きたくもない愚痴を聞かされて……」なんて、さらに愚痴の種が蒔かれていくことにもなりかねません。そういう意味では、愚痴はあまり良いものではないのです。
とはいえ、誰しも愚痴を言った後は気持ちがスッキリしますよね。私もついつい言ってしまう時があります。だから、「絶対に愚痴をこぼしてはいけない」ということではありません。
大切なのは、「愚痴に自覚的であること」、つまり「あ、ちょっと愚痴をこぼしちゃったな」と自分で気づくことが大事です。
話している最中は気づかなくても、話し終えたときに愚痴をこぼしてしまったことに気づいたなら、「愚痴を言ってごめんね」「聞いてくれてありがとう」と相手に感謝しましょう。自分が愚痴をこぼした相手の負担を、しっかりと自分でも味わうことです。
「愚痴」の反対にあるのは「感謝」の気持ち。
愚痴をこぼしてストレス発散した場合も、愚痴をこぼした相手には感謝の気持ちを持っておくよう心がけましょう。小さな感謝に心を向けることが、愚痴にとらわれている自分から解放してくれる小さな糸口となります。
愚痴よりも、「日々のいいこと探し」を
日々のよいことを探す心持ちを
でも、愚痴を探すよりも感謝の気持ちを探したほうが心は穏やかになります。そして感謝の気持ちを表すことで心の中のマイナスな気持ちが薄まり、きれいな状態になっていきます。
愚痴を探すのではなく、感謝の心を持って「日々のいいこと探し」に切り替えれることができれば、人生はより豊かなものになるでしょう。
愚痴ばかり言ってしまう「無明(むみょう)」の状態から脱け出すのは簡単なことではありません。ですが、「自分は今、無明に陥っている」と気づけたときがチャンスです。
気づきは時につらいこともありますが、自分の心をより良い状態に向けるためには、悪い状態に気づかなければなりません。その気づきがきっとあなたを変えてくれるはずです。
「無明」の対義語は、「悟り」です。
私たちは、悟りに至るために日々、仏さまの教えに触れているのです。悟りに至るまでの道のりは果てしなく遠いものですが、少しずつでも近づけるように心がけていきたいものですね。
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