新宿に灯をともした名喫茶「青蛾」
戦後間もない1947年に誕生し、1981年まで新宿の三越裏に存在した「茶房青蛾(せいが)」は、長い間私の憧れの喫茶店でした。新宿が若者文化の中心地だった時代、名曲喫茶としてスタートした「風月堂」(1947~973年)と共に語り伝えられる伝説の喫茶店です。
モダンなインテリアの広々とした風月堂と、古材を組んだ一軒家の青蛾は対照的。風月堂が音楽や前衛芸術の中心的役割を果たしながら、60年代後半には客層が激変してしまったのに対して、青蛾は最後まで「頑固親父の喫茶店」として静かな秩序を貫き通したそうです。
来たい人だけが来てくれればいい、目の前のお客さまを大切にする――その姿勢は終始変わらなかったと、亡き店主・五味敏郎さんの長女である五味美里さんはおっしゃいます。今回の記事では、美里さんにおうかがいした往年の青蛾の記憶と、この4月にオ―プンしたばかりの新生・茶房青蛾をご紹介します。
新宿歴史博物館の特別展『回想の茶房青蛾とあの頃の新宿』
青蛾の空間は、画家を志した五味敏郎さんの美意識に基づいて全てが緻密に計算されていました。新宿の喧騒の中に心安らぐ静けさを作り出すため、また「音楽の嗜好は人それぞれ。万人に好まれる音楽はない」との考えからBGMは流さず、床は尖った雑音を立てないレンガ敷き、コーヒーのソーサーも木製の茶托を用いるなど、そのこだわりは徹底したものでした。
ブナの木の椅子とテーブルも五味さんがデザインしたもの。初めて私がその実物を見たのは、2000年秋に新宿歴史博物館で開催された特別展『琥珀色の記憶~新宿の喫茶店/回想の茶房青蛾とあの頃の新宿』を訪れた折のことでした。
展示室の一角に往年の青蛾の一階部分が再現され、五味美里さんが大切に保管していた当時の調度品の数々が運び込まれていたのです。
その古色を帯びた椅子やテーブルの思わぬ小ささ。当時の日本人の平均身長に合わせたのでしょうか。新しい青蛾の店内で美里さんにそうお尋ねすると、「なにしろお店が小さかったので」と笑っておられました。
「その小さい空間で寛いでいだけるよう、家具はもちろん障子の桟の幅に至るまで、父は1cm単位で考え抜いていました。一階のカウンターにいても二階のお客さまの気配を察知できるように、階段の位置や手すりの高さにも工夫を凝らしてね。女性のお客さまが階段を昇り降りする時は、スカートの中が気になりますよね。父が熟考していると、当時のウェイトレスさんの中にさばさばした面白い人がいて、『あたし昇ってきます!』と、階段をトントン昇ってみせてくれたのです」
茶房青蛾の歩み
若き日の五味敏郎さんは富士写真フィルム(現在の富士フィルム)に就職し文化映画の制作に携わっていましたが、敗戦後に退社。絵を描く時間を確保しながら家族の生活を支えるには喫茶店がいい、と考えたようです。
粋な店名は美人を意味する「蛾眉(がび)」と「青眉(せいび)」から。店頭のランタンにあしらわれた青蛾の文字や、蛾を象った絵は五味敏郎さんの手になるものです。
開店8年後の1955年、区画整理のためすぐ近くに移転。こだわり抜いた空間の趣、静けさ、コーヒーのおいしさ、マナーの悪い人には容赦なく退店を促した「怖い親父」の人柄に惹かれて、さまざまなお客さまが集まりました。
常連客には富士写真フィルム時代に知り合った映画関係者や早稲田大学の演劇科の人々、東京芸大の人々が多かったといいます。その中には映画監督の谷口千吉、画家・林静一、デザイナーの植田いつ子や脚本家の橋田壽賀子らの姿もありました。しかし敏郎さんは生前、お客さまの名前を明かすことは一切しなかったそうです。
「新宿歴史博物館の展示の際に、文化的な資料として常連客のお名前を請われて、残っていた帳面やいただいたお手紙から探したんです」と美里さん。展示室での店内復元に際しては、映画美術監督の木村威夫氏が写真や図面を元に尽力されたそうです。
喫茶店のマスターとして
「父は雑誌に『民芸風の店』と紹介されるのを嫌っていました」と美里さんは回想します。
敏郎さんの母親の実家は甲府で種苗商を営んでおり、その実家をはじめ、戦前は界隈に立派な商家が建ち並んでいたようです。本当に良いものに多数触れてきた体験を持つ人ならではの美意識が、お店に反映されていたのでしょう。まだ戦後のしっぽをひきずる不自由な時代に、日本の伝統工法に則って造った建物。階段は釘を一本も使用せずに組んだそうです。
一時期は待ち行列ができるほどの人気となった青蛾ですが、「一人でお見えになる女性客に気を遣って、相席は決してさせませんでした」。また、年齢や外見、性別にこだわることなく、マナーの良いお客さまには平等に接していたそうです。当時、新宿で有名だった過激なルックスのヒッピーのカップルも、青蛾では静かに寛いでいたとか。
やがてバブル期を迎える日本。高騰する地価に耐えきれず喫茶店は次々に閉店していき、1981年、青蛾もついにその歴史に幕を下ろしたのです。
東中野の住まいをギャラリーへ、そして喫茶店へ
青蛾の貴重な調度品が保管されていた東中野のご自宅。それをギャラリーとした契機は、地下鉄開通工事のため山手通りが拡張されたこと。本来は道路から2軒めに建っていた静かなご自宅が、いきなり大通りに面することになったのです。
2000年にオープンしたギャラリーでは何度か、青蛾のテーブルと椅子を並べて喫茶の催しをしたことも。その当時からコーヒーを担当し、自家焙煎した豆を使ってネルドリップしていたのが内田牧さんでした。
ギャラリーでコーヒーを楽しみながら、「いっそこのまま喫茶店として再開してくれたら…」などと妄想を逞しくしたお客は、私だけではなかったかもしれません。2017年4月7日、茶房青蛾として待望の復活。その導線のひとつは、今年美里さんが父・敏郎さんの亡くなった年齢(73歳)を迎えることにありました。
「さまざまな思いが重なっての再開ですが、父が若いときから求めていた画業を遠回りしてでも創り上げた青蛾を通して、この東中野で寛げる場を提供できたらという思いが強くなってまいりました。高齢になってからの新たな仕事はきついでしょうが、父の気持ちを思いつつやってみます」
再びネジを巻かれて動き出した大きなアメリカ製の振り子時計。竹久夢二の絵、艶やかな椅子やテーブル、染め付けのコーヒーカップと木の受け皿などが、今度は現代的な明るいビルの中でお客さまを迎えています。
青蛾のコーヒーの魅力
コーヒーに関しては、青蛾を古くから支えてきたスタッフがお元気で、その方が正確に記憶している風味を参考にしながら内田牧さんが焙煎、抽出しています。
「私が求めたのは、内田牧さんに『新しい青蛾の珈琲』を創ってもらうこと。喫茶店の珈琲は時代、環境、淹れる人の人柄などで醸し出されるもので、それが自分の感性に合うかどうかです。ギャラリーのイベントを通して牧さんの人柄や品格を拝見し、この方なら父も納得してくれるだろうと思いました」
新宿時代は何杯かまとめてネルドリップしたそうですが、新しい青蛾では注文を受けるつど一杯ずつネルドリップ。ブレンド以外にも苦めのコーヒーとして現在はスマトラ・マンデリンを、酸味のコーヒーとしてイエメン・アールマッカを、またコスタリカも揃えています。ストレートコーヒーは時期によってさまざまな銘柄が登場するそうです。
新しく加わったのが2種類のクッキー。この日はバターとレモンが用意されていました。青蛾の焼印が素敵です。珈琲のお供にどうぞ。5月27日までは店内で第1回「回想の茶房青」展として、貴重な資料の数々が展示されています。ぜひ足を運んでみてください。
menu
ブレンドコーヒー 500円ストレートコーヒー各種 600円
カフェオレ 600円
紅茶(ダージリン/アッサム)各550円
SADOYAぶどう液 650円
本日のクッキー(2種類)各100円
shop data
茶房青蛾(さぼう せいが)東京都中野区東中野2-19-13
【TEL】03-6279-3055
【OPEN】11:00~20:00(LO 19:30)
【CLOSE】月+毎月最終日曜日
【最寄り駅】JR・都営大江戸線「東中野」駅より徒歩5分、山手通り沿い
※店内禁煙。パソコンや携帯電話の使用、お子様連れのご入店はご遠慮ください。