海辺の世捨て人

1月末、真冬のある日。原付バイクに乗った若者が、関西のとある海岸にやってきました。

そこは海沿いの道路から30分は歩かないとたどり着けない磯です。訪れるのは、釣り人が週に一人がせいぜい。聞こえるのは風と波の音と、海鳥の声だけ。
彼は砂利だらけの地面に持参のテントを張り、その日からそこで暮らし始めました。
磯

とある海岸に降り立った一人の若者はその日から…


アメフラシを食べ、バイオリンを弾く

いちばん近い商店までは往復2時間かかります。なるべく買い物に出なくて済むよう、彼はアメフラシやナマコ、名前のわからない貝などを採ってはゆでて食べ、海に流れ込む小川の水を煮沸して飲みました。

有り余る時間は、海を眺め、バイオリンを弾き、食料を採取したり海水を煮詰めて塩を作ることに費やしました。
魚

テント生活時代に採って食べていた魚。「僕はグルメではないんです」(c)わたぐも


吹きすさぶ風と闇の中、独りぼっち

最初は、道路に止めたバイク(他県ナンバー)を見かけた地元の人に通報され、職務質問を受けたりもしました。また、温暖な地とはいえ、真冬の海岸に吹き付ける風は強く、ダウンジャケットを着て寝袋にくるまっても、寒さが骨身に沁みます。テントの雨除けに張ったブルーシートはひっきりなしに吹き飛ばされ、そのたび結び直さなければなりません。気象情報や潮汐は、安全のため常にチェックしていました。この場所で何があっても、誰にも気づいてもらえません。
テント

テントの全景。この生活を4か月以上続けた(c)わたぐも


世捨て人の持ち物

彼がバイクに積んできたもの
テント、登山用寝袋、最小限の衣類、コッヘル、フライパン、カセットコンロ、30Wのソーラーパネル、LED照明、ノートPC、携帯、バイオリン

数少ない荷物にバイオリンが入っていたのは、彼はとても音楽が好きだからです。風の音や波の音、小鳥の声が聞こえる場所で、その時の気分に合った曲を即興で作り、演奏することが何よりの喜びでした。

彼が好きなものは、音楽と、海と、夕日。それさえあれば、たった一人でこんな場所にいても、満ち足りた気持ちになれたのです。
バイク

テント生活の一式を積んだ原付バイク。荷台の上にはソーラーパネルも(c)わたぐも


住所がなくてもアマゾンは届く

しかし、やはりここは人の暮らしとは隔絶した土地。吹き付ける海風は強烈です。彼はホームセンターでブルーシートを手に入れ、タープ代わりに吊りました。整地されていない地面から伝わる冷えと寝心地の悪さには、エアマットを導入して対抗しました。住所がないので、ネットで購入して最寄りのコンビニ留めで受け取るのです。後から、アウトドア用の椅子も追加しました。ゴツゴツした岩ではなく、安定した平面で背をもたせかけることもできる椅子は偉大だ! と彼は感激しました。

こうして、テント生活は次第に軌道に乗っていきました。


生活費、月1万5000円

生活費は、時折農業・漁業系の短期バイトで得ることができます。テント生活の出費は、月1万5000円ほど。ただ食べて寝て、海を眺めて生きていくには事足ります。テント生活のノウハウも身に付き、彼は相変わらず、誰とも言葉を交わすことなく、海を眺めて暮らし続けました。
川

テント生活の場所選びの決め手となった川。水がなければ生きていけない(c)わたぐも


春とともにやってきたもの

テント生活も2か月が過ぎた頃、ヒジキや貝漁の解禁とともに、この海岸にも人が入ってくるようになりました。春が来たのです。

気温の上昇とともに、生き物の活動が活発になります。彼を悩ませ始めたのは、大型のダニでした。痒さもさることながら、ダニが媒介する病気が厄介です。5月になる頃には、真冬の寒さよりも、それは彼にとってテント生活の存続を脅かす存在となりました。


テント生活の終焉

一方、こんな暮らしをしている彼を面白がり、中には彼を気に入って親切にしてくれる人も現れました。その中の一人の紹介で、暮らしていた海岸からほど近い場所に、安価な家賃の空き家が見つかりました。

ダニだけでなく、蛇や台風など、増していく危険を感じていた彼は、4か月以上にわたるテント生活は終わりを告げ、彼は定住生活へと移行したのです。
家

現在住んでいる家の全景。海至近、広い畑付き、駅徒歩30分で家賃は年5万円


「海辺の空き家で静かに暮らす」

彼は、「海辺の空き家で静かに暮らす」というブログの主「わたぐも」さん。関西の大都市出身、20代の男性です。その後2回の転居を経て、彼は今、少し離れた海岸に近い、別の空き家に暮らしています。そして、短期バイトを繰り返す生活を卒業し、地元の施設で介護の職を得て、安定した、しかし相変わらず静かな生活を送っています。現在の彼に、テント生活と定住生活の違いについて聞いてみました。
部屋

6畳ほどの居室。布団、ちゃぶ台代わりのこたつ、ピアノがある


金子 定住生活を始めたときはどうでしたか?
わたぐも 最初に、近所の方から布団をいただいたんですが、布団はいいですよ。最高です!

金子
 ほかに、よかったことは。
わたぐも 長期間放置されてかなり荒れた家でしたが、それでも蛇口をひねれば水が出るし、電気も使えるようになった。屋根があって壁があって、雨風の心配がない。テント生活とは劇的に違う。これだけでもう十分です。


増えたもの、大切なもの

金子 今、家電製品は何がありますか。
わたぐも 実家にあったのを送ってもらった冷蔵庫と洗濯機、それに電気炊飯器です。どれも、絶対になければダメというものではありませんが、コストに対して圧倒的に時間と労力を省くことができ、生活の質が向上しました。特に冷蔵庫は、いただきものの多い田舎で、食品を保存するためにとても重宝しており、食費の削減にも役立っています。

金子
 ほかに増えたものは。
わたぐも やはり実家から送ってもらったピアノと、だんだん揃えていった録音機材です。それと最近、趣味と実益を兼ねてシュノーケルの機材を手に入れました。許可を得て、自分が食べるだけの貝類を採っています。
シュノーケル

最近シュノーケリングを始めた。もちろん一人で潜る。すぐそばの磯には魚がいっぱい


タンスも食器もテレビもない

定住生活に移行しても、わたぐもさんの持ち物はさして増えていません。収納家具やグッズは見当たらず、すべてがむき出しに並べられています。
食器らしいものが見当たらないのは「鍋からじかに食べてますから」。

普段寝起きしている6畳のほかに、15畳ほどの空間もありますが、まったく使われておらず、ガランとしています。ピアノや録音機材は、大切な音楽の時間のために欠かせないものですし、シュノーケルマスクには、壊れてしまった眼鏡からはずしたレンズがセロファンテープで止めてありました。

テント時代から一貫して、わたぐもさんが大切にしているのは「海と夕日、音楽、静かな生活」。どれもモノではないので、増えようがないのかもしれません。
空き部屋

家の半分以上を占める空き部屋。まったく使っていない


徹底的にコストをかけない暮らし

定住し、定職を持つようになっても、わたぐもさんは極端なローコスト生活を続けています。外食はせず、ほぼ完全に自炊。広い庭では野菜を作り、海辺で拾い集めた流木は、風呂焚きの足しにしています。社会保険や税金、特別な出費を除けば、5000円の家賃を含めて、月の支出は3万円前後です。それだけでなく、生活が安定してきた最近、わたぐもさんは介護の仕事を、月15日ほどに減らしてしまいました。

彼はなぜ、徹底したローコスト生活を崩そうとしないのか。そもそもなぜ、海辺にテントを張って暮らしはじめたのでしょうか。
流木

拾った流木は風呂焚きの足しに。夏はほとんど使うことがない


人との関わりが苦手だった

金子 わたぐもさんが海岸でテント生活を始めたのはいつですか?
わたぐも 卒論を提出し、大学を卒業した直後です。

金子
 就活はしなかったんですか?
わたぐも はい。

金子
 それはどうして?
わたぐも 僕は子供の頃から人との関わりが苦手で、いつも何となく孤立した生活を送ってきました。高校時代は、兄が統合失調症を発症したこともあり、一時は家にも学校にも居場所がなく苦労しました。小学校の頃から習っていたピアノと、高校から始めたバイオリンが、心のよりどころでした。
畑

家の前で作っている畑。猿と鹿の食害がひどく、なかなか思うような収穫が得られないのが悩み


就活、無理!

金子 大学は関東に?
わたぐも そうです。そこでは一人ですが気の合う友達ができ、家庭のゴタゴタに悩まされずに済むようになったこともあり、とても心安らぐ時間を過ごせました。自分で音楽を続ける環境にも恵まれました。

金子
 名の通った大学ですが、芸術系でも医療系でもない学部ですね。どんな就職を考えていたんですか?
わたぐも 人間関係を継続するという経験が極端に乏しい僕は、就活の時期を迎えて呆然としてしまいました。「自分は御社のために〇〇を貢献できます」「自分は〇〇なら誰にも負けません」――、「自分をいかに役立つ人間に見せるか」競争である就活は、僕には到底無理だ。このまま就職して世間に出て、やっていけるのだろうか。というか、就職できるのだろうか……。
海

現在住んでいる家の近くから望む海。高台のため、遠くまで見渡せる


できるだけ人と関わらず生きていくには

卒業後、どうやって生きていくかに悩んだわたぐもさんは、「できるだけ人と関わらず、自分の心に負担をかけない環境で、少ないコストで生きていく」道を模索し始めます。そのために、授業の少なくなった4年の前期を使って、関東から南下して各地の農漁村を転々と熊本まで、ローコストで暮らせる場所を訪ね歩きました。

わたぐも 田舎で家を借りるには、地元の人の紹介が必要です。本当に人と関わりを持たずに暮らそうとするなら、海岸線にテントを張って数か月暮らすところから始めて、短期バイトしながら何年か暮らしてみるのもありかなと思うようになったんです。結果的に、出身地である関西圏のこの土地になりました。
夕日

わたぐもさんの愛する夕日。誰もいない海岸では、壮大な光景を独占できる(c)わたぐも


テント生活~定住を経て、何が変わったか

人と関わることを断つために、海辺のテント生活を始めたわたぐもさんですが、今ではきちんと仕事をこなし、地域の行事や当番に参加して、社会的な責任も果たしています。

金子 最初は世捨て人のようでしたが、今は皆となじんでおだやかに暮らしてらっしゃるるように見えます。学生の時と今で変わりましたか?
わたぐも うーん……、どうでしょう(笑)。学生の時と違い、職場は仕事という共通の目的があるので、自分の立ち位置が明確になったとは思いますが…。僕は、人との関係性を持続させていくっていうことができないんですよ。自分から働きかけるというのもしないし……。

金子
 やはり、人との心理的な距離があるのですね。とはいえ、人との関わりが少ない静かな環境で、海と夕日と音楽があって。学生時代に近い、理想の暮らしは完成しましたか?
わたぐも 決して理想ではないですが、そうですね、だいぶ近づいたかな(笑)。

わたぐもさんは、地域の音楽会に出演したり、映画音楽に曲を採用されるなど、静かな暮らしの中で、地道な音楽活動を続けています。



生き方を模索する手段としてのシンプルライフ

普通より少しだけ、器用に生きられないわたぐもさん。その生き方を「逃げ」と感じる人もいるでしょう。でも、ぎすぎすした人間関係に行き詰まり、息苦しさに疲れたとき、彼のようにすべてをブチっと断って、何も持たないところから生き方を再構築していくのもアリではないでしょうか。

このところ、海辺の田舎暮らしの参考にと、全国から彼に会いに来る人が増えています。その中には、数年前の彼のように、何らかの生きづらさを抱えた人もいるのかもしれません。
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