寿司職人に修業期間は必要なのか?
ホリエモンこと 堀江貴文氏の“寿司職人が何年も修行するのはバカ”発言について、今回は回転寿司評論家の筆者が解説しよう。まず断っておくが、寿司職人が何年修行したところでバカではない。彼のことだから端から炎上を狙っての発言だろうが……。そんなわけで、「寿司職人が何年も修行をするのは必要か否か」と聞かれたら、残念ながら「必要ではない」と言わざるを得ない。なぜならば、寿司職人になるには難しい実技試験をパスして資格を取る必要がなく、脱サラをしていきなり寿司屋をはじめたところで、なに一つ問題ないからである。
では、なぜ修行をするのかというと、これは寿司だけでなく料理業界全般にいえることでもあるが、店が学校の役割をしているからにすぎない。たとえば、寿司職人になりたいと思ったとしても、それが超名門「すきやばし次郎」に入りたいのか、大衆寿司店なのか、はたまた定員割れで慢性的人員不足の回転寿司の職人なのか、あるいは学校などに入らず独学で修行するのか、選択肢は限りなくあるわけだ。
日本一を目指し、銀座の超名門寿司店で修行をすると決意を固めた者だけが、それこそ「飯炊き3年握り8年」の長い修行に身を投じるわけで、それを「バカ」と斬って捨てるのは考えが浅すぎ。彼いわく「イケてる寿司屋はセンスが大事」とのことだが、この発言に関しては堀江氏のセンスがなさ過ぎただけである。
例えれば銀座の名門寿司店は歌舞伎や狂言のような伝統芸能の世界であり、大衆寿司や回転寿司が大衆演劇の世界に近い。伝統芸能の世界では修行無くして一流とは認められず、大衆演劇の世界には必ずしも修行は必要がなく、それこそ、センスでどうにでもなる。同じ寿司であっても目指す頂がまったく違うのであるから、比較すること自体がナンセンスなのだ。よって、正しくは「寿司職人になること自体に修行は必要ないが、敢えて険しい修行に身を投じる覚悟を決めている職人もいる」でいいんじゃないかと思うわけである。
数か月で独り立ちした職人の寿司はうまいのか?
では、「数か月で独り立ちした職人の寿司はうまいのか?」について考えてみたいと思う。そもそも寿司の好みというのは、異性の好み同様、それこそ千差万別ではないかと思う。100円回転寿司のシャリでも好みが別れるように、それこそ立ち寿司店のシャリともなるとまったくといっていいほど個性が違ってくる。さらに握り具合やネタの切りつけなど様々な好みがあるため、そこそこのセンスのある職人が握った寿司であればうまいと感じる人はきっといることだろう。「飲食人大学」や「すしアカデミー」など短期で寿司職人を養成する学校が注目されているように、もはや「寿司は長い修行をして会得するもの」という考え自体は古くなってしまい、修行をしなくても職人への道は開けている。数か月の勉強で会得できる寿司の技術もあれば、接客術もあるとは思うし、それを気に入ってくれる客がいれば、寿司職人として立派に独り立ちしたといっても差し支え無い……のだと思う。
ただ、おそらく日本一寿司を食べていると自負する私としては、寿司ってどこまでいっても職人の魅力を味わうものだ、と感じている。私も何度か本当に感動する寿司に出会えたことがあるが、その時に感じたのはその寿司を作り出した職人に対するリスペクトであった。ひとつの道を極めようとしている者だけが持つことが許されるオーラとでも言うのだろうか。ただ、三か月で寿司のいろはを習得した職人だって、握り続けていれば自分なりの寿司の世界観がはっきりと見えてくるだろうし、人を感動させる寿司を握ることも可能であろう。厳しい修行に敢えて挑む者、実戦で己の鮨道を磨く者、どちらが偉くてどちらがダメだということは決してない。
寿司の世界では「どこの寿司店で修行をしたか?」という学歴社会にも似た序列のようなものが存在するのは事実だが、一方で中学・高校しか出ていなくても立派な会社を経営している人がごまんといることを思えば、独学で寿司を学んだ人が一流寿司職人になれないなんて道理はない。要はお金を取れる職人になってからどれだけ研鑽を積むか?それだけである。
よって「数か月で独り立ちの寿司はうまいのか?」という質問にはこう答えるのが正しい。
「もちろん、美味しい寿司を握る人もいるだろうが、本人の努力次第で、少なくとも今よりは数か月後、数か月後よりは数年後の方がもっと美味しくなっていると思う。それは人間的魅力が増しているから」と。
センスなんてものはないよりはあるに越したことはないが、それだけで客に支持される寿司が握り続けられるほど寿司の世界は浅くはない。せめて自分ができることは、いつか会えるだろう恋人に袖にされないために客としてのセンスを磨いておくことくらいだ。とはいえ、たまにしか会えない本命と同じくらい、いつでも気軽に行ける回転寿司を心底愛しているんですけどね。
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