セナ&プロストの黄金期。しかし、バブル崩壊で…
ホンダはターボエンジンが禁止となり、3500cc自然吸気エンジンにF1のルールが変わった89年以降も勝利を重ね続けました。F1にカーボン(炭素繊維)の車体をいち早く持ち込んだテクノロジー集団「マクラーレン」と組んだこと、そしてアイルトン・セナやアラン・プロストといった素晴らしいドライバーと巡り合ったことなど好材料が多かったのも大活躍の要因でしょう。80年代から90年代の第2期F1活動で「レース、モータースポーツのホンダ」としてのイメージを独占しました。しかし、バブル崩壊の不景気が到来し、ホンダは92年をもってF1活動を終了。関係の深い企業「無限」が継続してエンジン供給を続けました。
再びF1への挑戦を発表したのが1998年。今度はエンジン供給にとどまらず、第1期同様に車体も作るオールホンダとしての参戦表明でした。テスト走行が始まり、好タイムをマークして期待感が膨らむ中、車体開発の要人だったポスルスウェイト博士(元「ティレル」チーム)が急死してしまいます。これによりオールホンダとしてのプロジェクトは頓挫し、ホンダは「ティレル」を買収した「B・A・R」チームに2000年からエンジン供給という形でF1に復帰します。第2期と同じ形態に落ち着きました。
BARホンダ002(2000年) 手前
出だしはジャック・ビルニューブが初戦から4位入賞。年間ランキングも5位と悪くないスタートでした。ただ、優勝は2006年にオールホンダ体制となってからの1勝に留まりましたから、第3期活動はあまり良いイメージで捉えられていません。しかし、「フェラーリ」が全盛の時代で、自動車メーカーがこぞってF1にワークス体制で参戦し、大量の資金流入により、F1が劇的に変わっていった時代ということを考えれば、今考えると善戦したとも言えるのではないでしょうか。第2期のような圧倒的な優位さはなかったにせよ。
「マクラーレン・ホンダ」で新時代のF1へ進軍!
第3期活動は2008年、リーマンショックの不況による経営状態の悪化で突然、終わりを迎えることになります。翌年、「フェラーリ」全盛期を築いたロス・ブラウンをチーム代表に迎え、いよいよ巻き返しというタイミングであったため、ホンダの撤退は衝撃的でした。イギリスにある「ホンダ」F1チームの本拠地は売却され、それを受け継いだのが翌2009年のチャンピオンチーム「ブラウンGP」、そしてその流れを組むのが現在のF1で最強を誇る「メルセデス」チームであることは何とも皮肉な話です。
そして、2013年5月、ホンダは新時代のパワーユニット(PU)規定になったF1に「マクラーレン・ホンダ」としての参戦を表明します。2014年から始まる新規定でしたが、1年遅れの2015年からスタート。夢のようなパートナーシップに大きな期待が高まりました。
しかし、この発表時、ホンダのPUはまだ影も形もなかったそうです。すなわち昨年末のテストで試走するまで開発期間は僅かに1年半しかありませんでした。「ハイブリッドカー」を売りにするホンダですが、市販車と今の複雑なF1では全く勝手が違います。「ハイブリッドF1」という意味では「運動エネルギー」を利用してパワーアシストする「KERS(カーズ)」の装着が2009年から始まり、F1はすでにプチハイブリッド化していました。ホンダも撤退発表の翌2009年から導入ということで、研究所ではこれに対する開発が進められていましたが実戦投入はお蔵入り。ハイブリットF1の研究開発はストップしてしまいました。
そして、1600ccV6ターボエンジンの現行規定に向けた「たたき台」が発表されたのは2011年のこと。新規定が策定される前には各メーカーの代表者が招かれて議論が行われているはずですが、この当時、ホンダはF1に参戦していなかったため、こういう議論には参加していません。一方で、メルセデスは既にワークスチームとして参戦していましたし、この頃から4年ほどかけて研究開発を行ってきたことが今の圧倒的な強さにつながっていると考えられています。
「運動エネルギー回生」の「KERS」も開発し、「熱エネルギー回生」も先行で開発していたドイツの巨人「メルセデス」。一方でその期間、休養を余儀なくされていた日本の「ホンダ」。そのハンディキャップはあまりに大きいと言えます。
最初の新時代F1テスト車両となった「マクラーレンMP4/29-H 1X1」
こうして参戦の歴史を振り返ってみると、F1において継続は力なりということがわかります。いったん休むと全てを失い、それを取り戻すことが非常に難しいということ。そのため、ホンダは今後のF1活動に関して継続的に行う姿勢を表明してF1に取り組んでいます。ホンダが公式には「第4期活動」と言わない理由はそこにあります。
期待とは裏腹に苦戦を強いられているホンダですが、F1参戦発表時にも若い技術者の育成が参戦の目的というコメントがありましたし、実際に若いエンジニアたちが今のPU開発に取り組んでいます。今まさに「産みの苦しみ」という貴重な経験している彼らの今後は非常に楽しみですし、これからも続いていくであろう日本F1史の大きな希望ではないでしょうか。