住みたい街 首都圏/キケンな街の見分け方

実は被害甚大だった横浜の関東大震災を知っておきたい

防災の日、9月1日は1923年(大正12年)に起きた関東大震災のまさにその日。東京では下町での大惨事が知られるが、実は見方によっては横浜市の被害はそれを上回る。横浜の関東大震災について知っておこう。

中川 寛子

執筆者:中川 寛子

住みやすい街選び(首都圏)ガイド

関東大震災は東京の地震ではなく、
神奈川県が揺れた地震だった

震度分布

関東大震災の住家全壊率と震度分布。内閣府広報ぼうさい 29号 20ページより。2007年5月(クリックで拡大)

関東大震災と言えば多くの人が想起するのは4万人余りが犠牲になった本所の陸軍被服廠跡地での火災旋風だろう。その印象が強いせいか、関東大震災といえば東京都が被害の中心だったように思われがちだが、実際には違う。右の図から分かる通り、震源地の直上にあたる神奈川県が中心となっており、震度7の激震地区も広範に渡っている。加えて、津波被害の無かった東京に比べ、神奈川県では津波によって200~300人が亡くなっており、700~800人が亡くなった土砂災害の大半も神奈川県で発生している。

 
赤レンガ倉庫

大桟橋は陸地側の3分の2ほどが崩壊したそうだが、現在の赤レンガ倉庫、当時の官設3階建煉瓦倉庫は残り、現在も利用され続けている(クリックで拡大)

ここではそのうちでも横浜市の被害を見ていきたい。当時の横浜市は西区、中区、神奈川区、南区を中心にした、現在の市域の10分の1ほどの地域に約42万人が居住しており、人口で比べると東京の約5分の1ほど。

 
被災後の写真

被災後の横浜中心部。瓦礫の山という言葉が実感できる(クリックで拡大。大里重人氏にご提供いただきました)

ところが、住家全壊棟数で見ると東京が1万2000棟であるのに対し、横浜市は1万6000棟である。人口が約5分の1であるというのに、全壊した住家は横浜のほうが多いのだ。それだけ揺れがひどかったわけである。

 
中心部の地図

前出の写真が撮影された横浜中心部の地図。赤い線は後日震災の記憶を書籍にまとめたドッドウェル商会のO・M・プール氏の足跡。位置が分かるよう現在の施設なども混在している(クリックで拡大。大里重人氏にご提供いただきました)

「体験談などを読むと、煉瓦の倉庫が一瞬のうちに崩れ落ちたなど、揺れが非常に大きかったことが分かります。海に面して走るバンド(海岸通り)に並んでいた洋風のホテルや建物などもすべて倒壊しています。ただ、東京の下町と同様に埋め立て地とそれ以外では倒壊の状況が違いました」(横浜都市発展記念館主任調査研究員・青木祐介さん)。

 

横浜港の埋め立て

横浜港変遷図。横浜市港湾局企画調整部企画調整課

これを理解するためには右の図が分かりやすい。これは横浜港の埋め立ての歴史を図化したものだが、右上に2カ所、カーキ色に塗られた新田開発時代の埋め立て地がある。左には関内、石川町の文字があり、右の横には横浜の文字があることから、左側は関内駅周辺、右側は横浜駅周辺であることが分かる。そして、左側の関内駅周辺を見ると海側に古い土地があり、その背後に埋め立て地があることも分かる。

 

神奈川県庁

崩壊はしなかったものの、焼失。その後、取り壊されて現在の姿になった神奈川県庁(クリックで拡大)

「横浜公園から港に向かう日本大通りと直交する本町通りは古くから陸地だった場所。そのため、県庁や開港記念会館などがある本町通り沿いでは倒壊しなかった建物も数多く残されていました。現在も本町通り周辺では高層でも杭を打たずに建物が建てられているほどです」。

 

震災の遺構

横浜市開港記念会館と道を挟んで反対側にある震災時の遺構。震災後の建物の中に煉瓦の壁が残されていたもので、建物を取り壊し時に発見され、現在は補強の上、公開されている(クリックで拡大)

県庁、市役所ともに倒壊は免れたが、横浜は発災後すぐに炎に包まれた。関内駅を中心とした横浜中心部は大岡川、中村川(元町~山下町間は堀川とも)に囲まれた埋め立て地で、住家全壊率は80%以上。そのエリアを中心に300カ所近くから火災が発生、あっという間に市内全域が炎に包まれたという。建物の耐震性を高め、倒壊させないようにすることは圧死を防ぐだけでなく、その後の火災発生をも防ぐのである。

 

横浜市開港記念会館

大正6年に建設され、震災では壁と時計塔を残して焼失、その後の復旧工事を経て今に残る横浜市開港記念会館(クリックで拡大)

横浜ではこの時の火災で多くの人が逃げきれず、焼死している。「市内には運河、橋が多く、その橋が落ちたり、焼けたりして逃げ道が無くなったことが被害を大きくしました。横浜は市街地のすぐ背後にいくつもの高台があり、そこに逃げた人も多いのですが、途中で一酸化中毒などで倒れた人も少なくありません」。現在、それらの運河の多くは埋め立てられているが、川のない場所に横浜橋、駿河橋などという地名があることを考えれば、かつての姿が想像できるというものである。

 

中華街

中華街も被害がひどかった地域。このエリアはその後、戦災でも焼け野原となった(クリックで拡大)

2年前、今回取材をさせていただいた横浜都市発展記念館では関東大震災90周年を記念した展示を行っており、その時、館内では鎮火直後の市内の映像が流されていた。まったく手を加えないままというその映像には焼け野原に転がる幾多の焼死体が写されており、私は圧倒的な被害状況に息をのんだ覚えがある。子どもだったら泣き出しそうなショッキングな映像だったが、それが90余年前にここで起きたことである。

 

横浜公園

横浜公園内には公園の歴史が記されている。面積6万平米に6万人が逃げ込んだそうで、惨事に至らなかったのは幸いだった(クリックで拡大)

一方で偶然が重なり、大きな被害を出さずに済んだ場所もある。「市内中心部にある横浜公園に逃げ込んだ人が多かったのですが、周辺がオフィス街だったため、多くの人は着の身着のまま。家財道具を持って避難した人が多かった本所では荷物に火が付き、惨事になりました。また、横浜公園では水道管が破裂、公園が水浸しになり、それが火災から人々を守る役割を果たしました。そうした偶然がなかったら、横浜公園もひどいことになっていたかもしれません」。

 

緑の多い横浜公園

横浜公園内には噴水、公園周りの塀その後、震災から生き残った人の手で作られたものなども残されているという(クリックで拡大)

もうひとつ、横浜公園は明治9年に完成した西洋式公園であり、その当時から緑の多い場所。樹木その他が火の粉を防いでくれたのも被害が大きくならなかった要因ではないかと思う。

 

横浜市役所

当時の煉瓦造りの建物は屋根が銅板などで覆われており、その部分が火に弱く、屋根から火が入り、焼失するケースが多かったそうだ(クリックで拡大)

横浜の火災は一気に燃え上がり、一昼夜で市街地を焼き尽くした。神奈川県庁、横浜市役所もこの時に全焼、警察署その他の行政機関もほとんどが崩壊、全焼しており、行政機能は一時的に麻痺していたといえる。また、鉄道、通信網も寸断されていたため、震災後の数日、横浜は社会と隔絶された状況でもあった。それが横浜の被災状況が正確に伝わらなかった理由のひとつかもしれない。

 

関東大震災の被害者数

内閣府防災情報ホームページ「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成18年7月 1923 関東大震災」より

右の表は内閣府の防災情報ホームページ内にある関東大震災の被害を表にしたものだが、これでみると、神奈川県の被害の大きさが際立つ。死者数こそ、東京都が飛びぬけているが、ここには本所の4万人余が含まれている。そう考えると、関東大震災では被害も死者も神奈川県が甚大だったといえよう。

 

震災が変えた横浜。
最大の計画は山下公園

ホテルニューグランド

山下公園と道を挟んだところにあるホテルニューグランド。その昔はこの通りに外国人が経営する会社や倶楽部、ホテルなどが建ち並んでいた(クリックで拡大)

震災は横浜を大きく変えた。震災前の横浜の道路の多くは狭く曲がりくねっており、アスファルト舗装もほとんどない状況だったが、震災復興で横浜の道路は根本的に改修された。また、市内では13カ所で土地区画整理が行われ、街並みは大きく変わった。河川、橋梁も整備された。だが、横浜という街の魅力に寄与したという意味で一番大きかったのは山下公園ではないかと青木氏。震災復興では山下公園を始め、野毛山、神奈川、元町公園などが作られているが、海辺の公園は山下公園のみ。

 

山下公園

散策する人で賑わう山下公園。都市の海を身近にした存在でもある(クリックで拡大)

「山下公園は震災の瓦礫を埋めて作られた公園で、今ならウォーターフロントに人が集まる場所を作るという発想は一般的ですが、当時はそうした時代ではありませんでした。港は普通は市民が入れない場所で、貿易の場、収益を上げる場です。そこに市民の憩いの場としての公園を作る。実業家の発想では出てこないところに山下公園が風穴を開けた。街のイメージがこれで大きく変わったのではないでしょうか」。

 

公園でいえば、今も横浜公園は市の中心部にあり、東日本大震災時には多くの人が集まった。災害時には広い公園に逃げるのはセオリーだったからだが、「後で消防の人には建物内に留まっていてくださいと言われました。市街地ではガラスや外壁が落ちてくるので外に出るのはむしろ危険だと。横浜では関東大震災から節目の年には記念の展示などをやっているのですが、あれから阪神・淡路大震災、東日本大震災を経て防災や避難に対する考えなどずいぶんと変わりました」。

 

らせん杭

大桟橋のたもとに飾られていた、桟橋を支えていた杭。注意して歩くと市内には多くの歴史的な遺構が残されている(クリックで拡大)

災害が起きる度、私たちは学習をしているわけだが、それでもまだまだ学ぶべきことはあるはず。横浜以外にも関東大震災で、あるいはそれ以外の地震で、今は忘れている人も多い被害がある。利便性その他生活に大事なことと同様、街について調べる時には災害についても忘れずチェックしていただたきたいものである。

 


参考資料
横浜の関東大震災 今井清一著 有隣堂 
関東大震災90周年 関東大震災と横浜 横浜都市発展記念館・横浜開港資料館
報告書 震災復興と大横浜の時代 横浜市史資料室

※記事内容は執筆時点のものです。最新の内容をご確認ください。

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