元々はG馬場の愛弟子のアイドル・レスラーだったが…
観客を熱狂させる邪道・大仁田厚
今でこそプロレスの保守本流からかけ離れた「邪道」と呼ばれる大仁田ですが、元々は歴史と伝統を重んじる「王道」のジャイアント馬場が設立した全日本プロレスの生え抜き第1号選手でした。73年秋に16歳の若さで全日本に入門し、翌74年4月にデビュー。80年に海外修行に出るまで、ずっと馬場の付き人をやっていました。
82年3月7日に米国ノースカロライナ州シャーロッテでチャボ・ゲレロを撃破してNWAインターナショナル・ジュニア・ヘビー級王者になり、同年5月に凱旋帰国。「炎の稲妻」のニックネームでアイドル・レスラーになったのです。当時、新日本プロレスのジュニア・ヘビー級王者はタイガーマスクで、大仁田はタイガーマスクに対抗する全日本のジュニア・ヘビー級のエースとして売り出されました。その時代は全日本と新日本は冷戦状態だっただけに2大ジュニア王者対決は残念ながら実現しませんでしたが、30年以上が経過した今、大仁田とタイガーマスクが50代で抗争を展開しているのだから運命の不思議さを感じます。
大仁田の人生が大きく狂ったのは83年4月の左膝蓋骨複雑骨折です。左膝の皿が5つに割れる重傷を負ったのです。1年1カ月後の84年5月に奇跡のカムバックを果たしましたが完治はせず、85年1月3日に引退しました。27歳の若さでした。
しかしプロレスの夢断ちがたく89年にFMWを旗揚げしてプロレスに復帰します。当時、プロレス界は本物志向の格闘プロレスを推進するUWFの大ブームでしたが、大仁田は「プロレスには反則もあれば、流血もある。何でもありがプロレスだ!」と真逆のコンセプトを打ち出し、そこから生まれたのがノーロープ有刺鉄線電流爆破マッチでした。