ジェット機参入への難しさ
その後、戦後初の国産旅客機としてYS-11が製造されたが、これは座席数も少ないプロペラ機であり、やがてジェット化の波に飲まれてしまった。ならばジェット機を作ればいいと言いたいところだが、ジェット機の製造には莫大な開発費が必要なことや、プロペラ機と比べて越えなければならない課題が多いことなど、現実的に厳しいものだった。
後発の日本が取った道
こうして約半世紀以上が経過する間、外国のメーカーは飛行機を製造し、ノウハウを着々と積み上げる一方、日本のメーカーは部品を供給するにとどまっていた。ただし日本製の部品は優秀で、世界各国の飛行機に使用されてきた。つまり完成品としての飛行機全体の製造はしてなくても、飛行機メーカーとしての能力を持つ会社が育ってきていたのだ。
搭載するリチウムイオンバッテリーの発火問題でトーンダウンしたものの、ボーイング787もその構成部品の多くが日本製であることから、“事実上の国産ジェット旅客機”とも表現されていた。
狙いは小型機市場
こうして日本は再び飛行機市場に参入することになったのだが、半世紀以上に及ぶ空白は大きく、大型機市場はアメリカのボーイング社などに完全に押さえられている。そこで目をつけたのが、わずかだが参入の余地がある座席数100席以下の小型機市場というわけだ。
MRJ成功の可能性は?
小型機市場はブラジルのエンブラエルとカナダのボンバルディアの2社で80%以上のシェアを占めている。そこに参入するのは楽ではないが、現段階では日本のANAが25機、JALが32機の導入を表明し、用途が合う新興国からも発注が見込めるため、この国産旅客機は何とか“離陸”できると見られている。
MRJは日本の誇りを取り戻す挑戦
百田尚樹の小説『永遠の0』や映画『風立ちぬ』などをきっかけに、日本がかつて世界最高の技術を誇ったゼロ戦の、飛行機としての素晴らしさが改めて関心を持たれているように、日本には一流の航空技術を持っていたという自負がある。そうした点において、MRJの成功はまさに日本の航空業界の悲願であり、物作りにおける日本の誇りを取り戻すための挑戦と言えるだろう。