力道山&木村政彦と闘ったシャープ兄弟
日本初のプロレス国際試合はタッグマッチ
プロレス界はこの秋からタッグマッチを主体としたイベントのラッシュとなります。大日本プロレスではすでに9月23日の後楽園ホールから『最侠タッグリーグ戦』が開幕していて、11月21日の後楽園ホールの優勝戦まで日本全国で熱戦を繰り広げます。この先の各団体のスケジュールを見ると、全日本プロレスは10月8日(千葉・木更津市民体育館)~10月22日(後楽園ホール)の『ジャイアント・シリーズ』でジュニア・ヘビー級の選手によるタッグリーグ戦を開催。そして例年通りに1年の締め括りは『世界最強タッグ決定リーグ戦』(11月22日=後楽園ホール~12月6日=大阪・ボディーメーカーコロシアム第1体育館)になります。新日本プロレスは2012年からスタートさせた『WORLD TAG LEAGUE』を年末最後のシリーズ(11月22日=後楽園ホール~12月7日=名古屋・愛知県体育館)で開催。武藤率いるW-1は11月15日の福岡・博多スターレーン~11月30日の後楽園ホールの日程で初代タッグ王者決定リーグ戦を開催します。2対2、3対3など、複数の選手がチームを結成して闘うタッグマッチは、1対1が基本の格闘技の中でプロレス特有の試合形式、ルールです。実は1954年2月19日に旧・蔵前国技館で開催された日本初のプロレス国際試合のメインイベントとして行われたのは力道山&木村政彦とベン&マイクのシャープ兄弟によるタッグマッチでした。未知の格闘技で西洋相撲と思われていたプロレスの初試合で、あえてタッグマッチをメインに据えたのは力道山のプロモーターとしてのセンスと言ってもいいでしょう。
この時代、力道山より先に柔道の木村政彦、山口利夫らが太平洋を渡ってプロレスラーになっていましたが、リング上で闘う技術だけでなく、どうしたら日本人に受け入れられるかというビジネス的な視点も含めてプロレスを習得したのは力道山だけだったのです。力道山はプロレスという新しいスポーツを日本に紹介する最初のインパクトとして「5秒以内なら反則が許される」という特有のルールを活かした2人がかりの攻撃もできるなど、闘いのバリエーションが広がるタッグマッチを主軸にしたわけです。
タッグマッチの採用、シャープ兄弟起用で大ブームが!
大相撲の関脇だった力道山は1950年9月に自ら髷を切って廃業。51年10月28日に両国メモリアルホール(のちの日大講堂)でプロレス・デビューした後、修行のために52年2月にハワイに入り、同年6月から翌53年3月までジョー・マルセビッチというプロモーターの招きで米国本土に渡ってサンフランシスコを中心としたカリフォルニア一帯をサーキットしました。このサンフランシスコがプロレスのタッグマッチの発祥地だったのです。初めてタッグマッチが行われたのは1901年。当時のサンフランシスコのプロモーターがプロレスのゲーム性、エンターテイメント性を高めるために考案したと言われていますが、1930年代まではそれ以外の地区ではあまり行われることはなかったようです。初めてのタッグ選手権が誕生したのもサンフランシスコで、前述のマルセビッチがNWA世界タッグ王者決定トーナメントを開催して50年4月4日にロニー・エチソン&ラリー・モーキンを撃破したレイ・エッカート&ハードボイルド・ハガティが初代王者になりました。
そして力道山がサンフランシスコ入りした時の王者はシャープ兄弟。タッグマッチというプロレス特有の試合形式に魅せられた力道山は、まだまだ日本国民に終戦後の反米感情が残っていた時代に、2メートル近い米軍人を思わせるシャープ兄弟を招聘することを思いつきました。
柔道界の神様的存在だった木村政彦に反則のパンチを振るい、2人がかりで痛めつけるアメリカの大男2人(実際はカナダ人)を力道山が空手チョップの猛攻でなぎ倒す姿に日本国民は熱狂し、一夜にしてプロレス・ブームが起こりました。力道山のタッグマッチの採用とシャープ兄弟の起用は大当たりしたのです。
さて、次回はタッグマッチの技術とファンを熱狂させてきたタッグチームについてお届けしましょう。