史上3人目となる候補者資格取得1年目での選出
川上哲治氏(元巨人)の45歳8カ月を抜く、史上最年少45歳4カ月での殿堂入りを果たした野茂氏。
日本人選手の大リーグ移籍の先駆けとなった野茂氏は、川上哲治氏(元巨人)の45歳8カ月を抜く、史上最年少45歳4カ月での殿堂入りで、スタルヒン氏(元巨人など)、王貞治氏(元巨人)に次いで史上3人目の候補者資格取得1年目での選出となった。
「米国の殿堂入りもなかったし、投票する人が記者ということで、現役時代からあまり仲良くなかったので、意識してなかった。驚いたのと、うれしかった。僕の野球人生を支えてくれた家族、チームメート、周りの方々に感謝したい」
確かにマスコミと対立していた時期があった。1994年、近鉄との交渉がもつれ、任意引退の扱いを巡って対立。そんな中で、夢を叶えようとしての渡米に「わがまま」との批判が渦巻いた。マスコミは世論を代弁する形で野茂氏に質問をぶつけたため、両者の溝は深まった。入団したドジャースでも当時のトミー・ラソーダ監督が“仲介”に入るなど、決していい状態ではなかった。それをバネにして、新人王、最多奪三振のタイトルを獲得し、自らの力で絶賛の嵐に変えてみせたのは、野茂氏の凄いところ。今回の殿堂入りもその点の評価がキーポイントになった。
もちろん、それだけではない。最大の功績は、野茂氏が開いたメジャーへの扉へ向け、海を渡る日本人選手が後を絶たなくなったことだ。その数はすでに50人を超える。「僕がメジャーに行かなくても、今のような時代は来ていると思う」と本人はあくまでも謙遜するが、野茂氏が風穴を開けなければ、イチローも、松井秀も、松井稼も、黒田も、ダルビッシュもメジャーの大舞台を踏んでいないのは間違いない。“パイオニア”という言葉が最もぴったりくるのが野茂氏なのだ。
野球人生を振り返って、一番の思い出を問われると、野茂氏はこう答えた。「近鉄での初勝利(1990年4月29日、対オリックス)とメジャー初登板(現地時間1995年5月2日、対ジャイアンツ)ですね。なかなか勝てずに1カ月ぐらいたって、仰木監督の誕生日に初めて勝てた。やっとチームの仲間に入れた日でした。そして、自分の夢が叶ったメジャー初登板の日は忘れられません」。
この2つの出来事を即答したあたり、当時のプレッシャーが半端ではなかったことが察せられる。
現在の夢は、主宰する“NOMOベースボールクラブ”での後継者の育成。第2、第3の野茂が、日米の懸け橋となってまた海を渡っていくことだろう。