亜久里3位表彰台、そして新世代へ
中嶋悟に続いて日本人F1ドライバーとしてデビューしたのが鈴木亜久里。端正なルックスでこちらもお茶の間の人気者になった。日本がF1ブームに沸いた1990年、鈴木亜久里は鈴鹿で日本人初の3位表彰台獲得という快挙を成し遂げた。亜久里の表彰台の熱狂に加え、チャンピオンを争ったセナとプロストの因縁の対決による2年連続の接触事故も相まって、鈴鹿のF1日本グランプリは国内でも確固たる地位を築いていった。鈴木亜久里が3位表彰台を獲得したラルース・ランボルギーニLC90のデモンストレーションランの様子
【写真提供:MOBILITYLAND】
当時は全16戦で開催されていたF1世界選手権で、鈴鹿の日本グランプリはシーズン終盤に設定されていた。そのため、チャンピオン争いがクライマックスを迎えた状態でF1が鈴鹿にやってくることが多かった。
1991年はマクラーレン・ホンダに乗っていたブラジル人ドライバー、アイルトン・セナがウィリアムズ・ルノーのナイジェル・マンセルと大バトルを演じたシーズンだった。そして、鈴鹿でマンセルがリタイアしたことでセナが鈴鹿で自身3度目の王座に輝いた。
1991年、F1日本グランプリのスタート
このレースでアイルトン・セナは優勝目前で意図的にペースを落とし、最終ラップ、最終コーナーでチームメイトのゲルハルト・ベルガーに優勝を譲った。チャンピオン獲得を支えてくれたベルガーへの友情と感謝を込めたセナの演出である。当時は今のように意図的に順位を入れ替えるチームオーダーが禁止されていない時代だからこそ実現できたものだったが、優しい心を持つ音速の貴公子、アイルトン・セナに多くの日本人は感情移入した。ガイド自身も初観戦したレースであり、非常に思い出深い。1991年は日本のモータースポーツにとってもまさにピーク期だった。ちなみにこの時の優勝マシン、マクラーレン・ホンダMP4/6を伊沢拓也が今大会においてデモンストレーションランすることになっている。
チャンピオン決定の舞台、さらに、こんなドラマの効果で鈴鹿のF1は日本のみならず、世界的にも有名なレースへと成長していった。
バブル崩壊、セナ亡き後、文化が生まれた
大ブームとなったF1も1994年サンマリノグランプリでアイルトン・セナが事故死して以後、徐々に国内でのF1人気は下降線を辿った。ミハエル・シューマッハ、ミカ・ハッキネン、ジャック・ビルヌーブなどの新星が活躍するが、セナ、プロスト、マンセルなどの名前を多くの若者が知っていた時代に比べると、F1はややマニアックなスポーツとして見られるようになっていった。日本人選手が参戦を続けるも目立った活躍は見られず、90年代の後半は日本のF1にとって冬の時代だったといえる。しかし、そんな時でも鈴鹿でF1を観戦するファンは多かった。ブーム期は抽選だったチケットも何とか入手できるようになり、F1での鈴鹿詣でが毎年の恒例行事になったファンも多い。そして常連のファンたちはそれぞれの日本グランプリの過ごし方を作り上げていったのだ。キャンプをし、ファン同士で語り合い、レースウィーク全体を楽しもうというファンが増え、独自の文化を作り上げた。現在も木曜日のピットウォークから月曜日の撤収作業を行う日まで、ありとあらゆるイベントを楽しむ熱心なファンが多い。ちなみに今年のピットウォークは2013年のF1日本グランプリのチケットを持参すると無料で参加する事ができるようになった。
木曜日のピットウォークの様子
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また、この時代にレースを観る側から支える側にまわった人も多い。コース脇でフラッグを振ったり、マシンを撤去したりとレース運営に携わる「オフィシャル」にはF1ブーム世代の人が多い。F1日本グランプリのメンバーに選ばれるためにアマチュアレースでの活動から多くの経験を積むため、鈴鹿のオフィシャルは世界的にみてもレベルが高いと言われている。ドライバーの救出に携わるレスキューオフィシャルが各国のグランプリで開催された救出訓練で世界一に輝いたこともある。
F1レースウィークに行われる救出訓練 【写真提供:MOBILITYLAND】
ストイックに活動に取り組む一方で、オフィシャルたちがレース前に観客の前でユーモアあふれるパフォーマンスを披露するのもF1日本グランプリの恒例行事だ。レースを取り仕切るFIA(国際自動車連盟)のメンバーもこういった鈴鹿のオフィシャルたちの仕事ぶりを信頼し、オフィシャルが繰り広げるパフォーマンスを気に入っているという。毎年各コーナーで趣向を凝らした演目が展開されるのも鈴鹿F1日本グランプリの楽しみのひとつ。鈴鹿のF1には他のスポーツイベントには無い、楽しい雰囲気が満載なのだ。
次のページでは再びブームがやってきたワークス対決時代を振り返ってみよう。