『八重の桜』の舞台、鶴ヶ城で桜を愛でる
今回の行き先は【福島】
『八重の桜』の舞台、鶴ヶ城で桜を愛でる
福島県・会津地方にある鶴ヶ城も、様々な歴史を重ねてきた城の一つ。近年では日本で唯一の赤瓦の天守閣となり、また2013年のNHK大河ドラマ『八重の桜』の舞台の一つとしてさらに注目度が高まっています。
今回は、『八重の桜』の舞台の一つである鶴ヶ城について、城を取り巻く桜と共にご紹介します。日本さくら名所100選にも選ばれた桜が鶴ヶ城を彩る風景は、まさに記憶に残る絶景なのです。
会津の歴史を見守ってきた鶴ヶ城
鶴ヶ城(Yahoo! 地図情報)は、福島県の西側、会津若松市に位置しています。城そのものの歴史は古く、室町時代初期には、会津地方を治めていた蘆名(あしな)氏の蘆名直盛が造った黒川館が始まりと言われています。戦国時代には、蘆名氏を滅亡に追い込んだ伊達政宗も入城しましたが暮らした期間は長くなく、その後豊臣秀吉の命により入城した蒲生氏郷(がもう うじさと)が、町の名前を黒川から若松に変えると共に天守閣を整備して、完成と共に城の名前を「鶴ヶ城」と変えました。
最初に造られた鶴ヶ城の天守閣は七層でしたが、江戸時代初期に五層に改装。その後は、会津藩を治める歴代の大名たちの拠点として使われました。
そんな歴史を持つ鶴ヶ城でしたが、大河ドラマ『八重の桜』でも描かれている幕末から明治初期にかけて、会津藩と共に大きな歴史のうねりに飲み込まれます。
大政奉還により歴史が大きく動いたことで明治新政府と旧幕府勢力の対立が拡大し、やがて戊辰戦争(ぼしんせんそう)が勃発。
旧幕府側についた会津藩は新政府軍と対峙しますが、戦況は日に日に悪化して最後は鶴ヶ城に1ヶ月に渡って籠城するものも、新政府への降伏という形で幕を閉じました。白虎隊の悲劇が起きたのもこの時期にあたります。
新政府への降伏はしたものの、城としては壊れることがなかった鶴ヶ城ですが、明治政府による廃城令が出されたため、1874年(明治7年)に廃城となり解体されてしまいました。
その後長い年月が過ぎた昭和時代中期になって城址としての本格整備がスタート。天守閣は1965年(昭和40年)に再建し、その後いくつかの復元工事を経て、2011年(平成23年)には天守閣の瓦を黒い瓦から幕末時代に使われていた赤い瓦に葺き替え、日本で唯一の赤瓦の天守閣として甦りました。
天守閣の内部は再建時に若松城郷土博物館として整備され、鶴ヶ城や会津藩、白虎隊に関する資料が展示されています。天守閣の一番上の階からは、会津若松市内を一望でき、白虎隊の悲劇が起きた飯盛山や会津のシンボルでもある会津磐梯山、飯豊連峰などを望むことも可能です。
それでは、いよいよ春だけのお楽しみ、桜の花が彩る絶景を楽しめる鶴ヶ城へご案内しましょう。次ページへ続きます。