沖縄の戦跡
沖縄の地を歩いていると至るところで沖縄戦で亡くなった人々の魂を祀った慰霊碑に出逢う。きれいに手入れされたものだけでなく、草むらの中、今にも朽ち落ちそうなものまで、その姿も実に様々。
様々な人々によって、様々な角度から語られることの多い沖縄戦ですが、最大にして最悪の特徴は軍人ではなく住民たちが最も大きな犠牲となったということ。沖縄県の資料によれば、この沖縄戦によって亡くなった人の数は、アメリカ軍12520人、沖縄出身者を含む日本軍約94136人、そして沖縄の住民94000人だといわれています。沖縄県人の4人にひとりが亡くなったと言われる沖縄戦。人類史上最悪のこの戦争の傷跡は今なお深く、生き残った人々も多くを語りたがりません。
南国の植物に覆われる中、口を開けるガマ(自然洞窟)の入り口。沖縄戦ではこのガマが住民たちの避難場所や軍の基地となり、今でも戦跡としてその跡を見ることができます。
沖縄本島南部の戦跡
沖縄の戦跡の代名詞ともいえるひめゆりの塔。ひめゆりの悲劇はよく知られるところですが、米兵にして“ありったけの地獄を極めた”といわしめた沖縄戦の、ほんのごく一部の出来事であることを忘れてはなりませんね。
■ ひめゆりの塔とひめゆり平和祈念資料館
ひめゆり達が務めた第三壕の真上に建つひめゆりの塔は、今でも献花が絶えません。
住所:沖縄県糸満市伊原671−1
TEL:098-997-2100
■ 伊原第一外科壕
ひめゆりの塔からほど近い場所にある伊原第一外科豪は、観光バスとお土産物屋がひしめくひめゆりの塔とは対照的に、ひっそりとサトウキビ畑の先に無言で佇む壕です。ここは第三外科壕と同じようにひめゆりの少女たちが配属されそしてその命を落とした場所です。ひめゆりの塔に参拝した際には、伊原第一外科壕にもぜひ足を運んでみてください。
住所:沖縄県糸満市伊原 ひめゆりの塔より国道331をわずかに西へ向い、海側へ入った辺り
※しらゆり部隊の少女たちがその最期を遂げたのは、多くはひめゆりの塔がある第三外科壕でもこの第一外科壕でもなく、解散命令が出され戦場の中に放りだされた少女たちが行き場もなく逃れ追いつめられた荒崎海岸であったと言われています。
■魂魄の塔
沖縄の人々の思いを背負った魂魄の塔。魂魄とは浮遊霊を慰める意味だと言います。
住所:沖縄県糸満市米須 平和創造の森公園入り口付近
■白梅の塔
糸満市国吉、国道54号からはずれてひっそりと佇む白梅の塔。左後方には彼女たちの納骨堂、塔の手前には無名の戦没者の遺骨が収められた萬魂之塔があります。
白梅の少女たちが自決した壕の中から外の光りを見上げた図。壕の中の暗さがどれだけのもので、外の光の目映さを痛感します。
住所:沖縄県糸満市国吉
■ 平和祈念公園
沖縄の戦跡としては大変によく知られる、摩文仁の丘に建つ恒久平和を祈念する公園。修学旅行や観光コースにもなっていますが、隅々まで見てまわるのはけっこう時間を要します。
住所:沖縄県糸満市字摩文仁577
TEL:098-997-2765
● 沖縄県立平和資料館
沖縄戦を知るための貴重な資料が多く展示された資料館。平和祈念公園を訪れたら、ぜひ資料館も訪れて欲しい。 写真提供:OCVB
住所:沖縄県糸満市摩文仁614-1
TEL:098-997-3844
● 沖縄平和祈念堂
平和祈念公園に入るとすぐに目につく、真っ白な空へ伸びるような形の世界平和を訴えるモニュメント。
● 平和の礎
戦没者への参拝に多くの人が訪れる平和の礎。写真提供:OCVB
● 摩文仁の丘慰霊塔
沖縄戦の終焉を迎えたこの丘は現在「国立沖縄戦没者墓苑」として、沖縄戦によって命を落とした各県慰霊碑が並びます。整然と並ぶ各県の慰霊碑から少し外れて、米軍に占領された読谷飛行時に特攻出撃した義烈空挺隊の慰霊碑である「義烈」や、ひめゆり部隊と同じように戦闘に加わることを余儀なくされた沖縄師範学校男子部によって編成された鉄血勤皇隊を祀った碑「師範健児の塔」、そして摩文仁の丘を最期の地とした「第32軍司令壕跡」など、沖縄戦最期に地であるがゆえの様々な戦跡がある場所です。
■ 喜屋武岬
晴れた日、喜屋武岬から眺める海の青さは素晴らしく美しく、戦争を知らない世代にとって沖縄戦でこの地が血の海と化したとは想像し難いでしょう。
住所:沖縄県糸満市字喜屋武
■ アブチラガマ
ガマとは自然洞窟(鍾乳洞)のことで、本島南部は特に多くのガマがある場所です。沖縄戦では、このガマが軍の避難場所や住民たちにとって防空壕の役割を果し、戦況が激しくなると野戦病院としても利用されています。玉城村糸数のアブラチガマは全長が270mにもおよぶ大きなガマで、沖縄戦末期は南風原陸軍病院の分室になっていました。負傷して亡くなった大勢の人々に加え、軍人と民間人の間の闘争、米軍による火炎放射攻撃など、多くの悲劇が起こった場所です。現在、アブラチガマは中に入って歩くことができよう公開されています。ガマの中の闇の暗さや、外界と遮断された空気感など、ガマの内部を体験してみることで、多少なりとも沖縄戦のイメージを理解することができるかもしれません。ガイドを伴っての見学も可能なので、案内が欲しい人は下記まで連絡のこと。
住所:沖縄県島尻郡玉城村字糸数667-1
問合せ:南部観光総合案内センター 098-852-6608
■轟の壕(トゥルルシガマ)
糸満市伊敷にある轟の壕は、沖縄戦では住民の避難場所でした。証言によると、1000人以上の住民や日本兵がいたと言われています。当時の沖縄県知事、嶋田知事も一時この壕に滞在し、ここで自治体組織が解散になりました。轟の壕だけに限ったことではありませんが、沖縄戦における住民と軍人による惨事が繰り広げられた場所です。
住所:糸満市国道331号線から少し入ったところ
問合せ:糸満市観光協会 098-840-3100
■ヌヌマチガマ・ガラピ壕
具志堅村新城にあるヌヌマチガマは、白梅部隊が動員された第24師団野戦病院の分室として使われていたガマです。全長500mの大きな洞窟で、西側をヌヌマチガマ、東側をガラピ壕と呼び、病院壕への入り口はヌヌマチガマの方。終戦間際、解散命令が下されると約800人の傷病兵が自決を強いられた場所で、白梅部隊の少女たちはここから前線の中へ行く宛もなく飛び出して行かねばなりませんでした。
住所:具志頭村新城
■旧海軍司令部壕
当時の様子がそのまま残された壕内。ここは参謀たちが会議を行なっていた本部の室内の様子。
住所:沖縄県豊見城市豊見城236
TEL :098-850-4055
■南風原陸軍病院壕跡
南風原に黄金森という小高い丘があり、ここに掘られた30余の壕が南風原陸軍病院壕と呼ばれる野戦病院で、ひめゆり部隊が最初に動員された病院としても知られます。戦火が激しくなり、第32軍司令部が摩文仁への撤退を決定すると同時に、この陸軍病院に撤去命令が下された際、置き去りにされた重傷患者には自決が強要され、碑には「重傷患者二千余名自決之地」と記されていますが、犠牲者の数はいまだ明らかではありません。
2007年より新たに整備された20号壕が見学可能になっています。完全予約制。南風原文化センターでは陸軍病院壕の再現や南風原の戦争遺跡の展示を見学することができます。
南風原町立南風原文化センター(水曜日は定例休館日)
住所:沖縄県島尻郡南風原町字喜屋武257
TEL:098-889-7399
■対馬丸記念館
1944年、沖縄からの疎開者を乗せた対馬丸が米軍の攻撃を受け乗船者1800名中学童775名を含む1418名が帰らぬ人となった事件がありました。当時、大勢の幼い子供たちが亡くなったにもかかわらず、この対馬丸沈没事件は箝口令がしかれ、事実を話すことが禁じられました。また事件の後、いよいよ日本が沖縄の地上戦へと突き進んでいく中、事実が明らかにされたのは戦後しばらくたってからのことです。戦争という大人の利己的な理由によって、大勢の子供の命を奪ってしまったこの対馬丸事件は、次の世代に伝えていかなくてはならない沖縄戦の出来事です。記念館では、対馬丸の子供たちの視点から資料や証言がまとめられ、小学生の子供でも理解できるよう展示に工夫がされています。
住所:沖縄県那覇市若狭1-25-37
TEL:098-941-3515
■旧第32軍司令部壕
首里にある旧日本軍第32軍司令部壕の入り口。中に入ることはできませんが、その入り口部分のみ覗くことができます。場所は、首里の守礼門から城内に入らずに、円鑑池の方へ行った辺り。案内表示も何もなく、草木に埋もれるようただひっそりと佇んでいますが、観光客で賑わう首里の一角にこんな戦跡があることに驚くでしょう。
国道や農道の脇や、海岸、林の中など、至るところに戦跡が散らばる沖縄。観光途中に碑を見かけたら、足を止めてこの戦争で亡くなった人々へ祈りを捧げてみて欲しい。
後半では、本島中部や他の地域の戦跡をご紹介します。