『芸術は、爆発だッ!』
『座ることを拒否する椅子』……記憶に残る芸術家:岡本太郎
世田谷美術館から「世田谷時代 1946-1954の岡本太郎」展、(3月24日から5月27日まで)開催のお知らせが届いた。
岡本太郎さんと言えば、昨年の夏、運命的にメキシコから帰還した巨大壁画『明日の太陽』が一般公開され大きな話題となったことが記憶にあたらしい。
しかし、なんといっても当時流行語にもなった『芸術は、爆発だ!』……戦後の高度成長の象徴として活躍した芸術家だ。
絵画にとどまらず立体造形・彫刻の作品も多く、その代表作が1970年大阪日本万国博覧会、そうあの『太陽の塔』だ。そして、ファニチャーイストにとっては、アンチテーゼ的な「座ることを拒否する椅子」などの家具も制作した。
ボクは、岡本太郎さんの広範囲でエネルギッシュな創作活動の原点を知りたくて、展覧会レセプションがある世田谷美術館へ向かった。
美術館から届いた『世田谷時代 1946-1954の岡本太郎』展覧会のリーフレット |
会場風景をお伝えする前に、手元に届いた展覧会資料からその概要をお知らせしよう。
このたび世田谷美術館では、「世田谷時代1946-1954の岡本太郎」展を開催する運びとなりました。パリ留学ののちに出征した岡本太郎(1911-1996)は、収容所生活を経て復員し,1946年末、世田谷・上野毛にアトリエを構えました。この混乱に満ちた戦後復興期、岡本は花田清輝らと「夜の会」を発表するなど、文学者たちとの交流のなかで新たな時代と芸術とその総合を目指すとともに,独自の芸術論「対極主義」を唱え、またアトリエにあっては他に例を見ない実に個性的な絵画を次々と制作してゆきました。本展では,青山にアトリエを移すまでの7年半ほどの「世田谷時代」に焦点を絞り,岡本自身の代表的絵画約20点をはじめ,同時代に活躍に活躍した関連の美術家、文学者たちの作品や資料を多数展覧し,得意な熱気をおびたこの時代の状況を,岡本の存在を通して再検証してみたいと考えております。(引用:展覧会資料)
『世田谷時代 1946-1954の岡本太郎展』会場へ
戦後復興期の再出発と同時代人たちとの交流
世田谷、砧公園、緑豊かでゆったりとした自然環境に包まれた世田谷美術館。
エントランスに入るとオープニング会見が始まっていると聞き、早速場内へ。
今回の展覧会開催にいたる経緯や岡本太郎のエピソードを交えての解説が興味深かった。 |
『とにかく大変な展示会だった。』と語る世田谷美術館館長:酒井忠康氏。
というのも岡本太郎さんが東京美術学校(現:東京芸術大学)中退後、10年間のパリ滞在から帰国し、初年兵として中国戦線に送られ復員するが、アトリエのあった青山の自宅もパリでの作品も空襲で全て焼失。まったく零からのスタートであり、岡本太郎さんの芸術活動において最もエンジンがかかる部分。焼失してしまった作品やその時代の資料をひもとくことが・・とにかく大変な作業。しかし、青山焼失のため引っ越してきた世田谷・上野毛が岡本芸術の発祥地、それが今回の展覧会の焦点だ。
それにしても、あのアカデミックな岡本太郎さんが中国戦線に・・・それも初年兵から。。。そして全て焼失とは。。ボクは、全く知らなかった。
「あの時代をくぐり抜けてきた人たちは、想像を絶する経験から這い上がっているのだ。」
展覧会場入り口風景 |
会場入り口でWAKUWAKUプレスレポート#32『クリエイターズ』展にご登場いただいた長大作さんと学芸員:野田尚稔さんにお会いした。
同時開催の『青山時代の岡本太郎1954-1970(川崎市岡本太郎美術館)』に長大作さんの椅子が展示されるという・・・そちらの展覧会もとても楽しみ。
さて、会場内は肖像権・著作権保護の為、撮影禁止。
ただ会場風景としての撮影許可を得たので、皆さまには会場の雰囲気をご紹介しよう。