平家最後の戦いの地、壇ノ浦と火の山公園へ

壇ノ浦の地図

今回の行き先は【山口】
平家最後の戦いの地、壇ノ浦と火の山公園へ

2012年のNHK大河ドラマ『平清盛』で改めて注目が集まった平家の栄枯盛衰。その平家の最後の戦いの地となったのが、本州と九州の間を遮る関門海峡を望む壇ノ浦(だんのうら)です。

平家物語などで綴られた合戦の様子は歴史の教科書にも取り上げられているため、地名を耳にしたことがある人は多いと思いますが、実際にその地を訪ねてみると改めて遥か昔の出来事に思いを馳せることができますね。

今回は壇ノ浦の戦いに縁のある名所と、壇ノ浦の目の前に広がる関門海峡を見下ろすことができる火の山公園からの素敵な風景をご紹介します。

 

平家最後の戦いの地、壇ノ浦

壇ノ浦古戦場/源義経の八艘飛び(はっそうとび)、平知盛の錨潜(いかりかづき)の銅像

壇ノ浦古戦場/源義経の八艘飛び(はっそうとび)、平知盛の錨潜(いかりかづき)の銅像(2006年1月撮影)

平家最後の戦いの地となった壇ノ浦(Yahoo! 地図情報)は、本州最西端の山口県下関市にあります。

本州最西端の駅、下関駅からバスに乗り込み、関門海峡沿いに東へ進んでいくと関門海峡をまたぐ関門橋の下をくぐります。その先に壇ノ浦古戦場があります。

 

関門海峡より望む関門橋。関門橋の奥に壇ノ浦がある

関門海峡より望む関門橋。関門橋の奥に壇ノ浦がある(2006年1月撮影)

歴史を紐解いておくと、平安時代後期に武家として日本で初めて政権を掌握した平清盛が率いる平氏に対して、不満を持つ武士や貴族による反乱が始まります。

その最中に平清盛が病死し、源義仲(木曾義仲)の軍に攻められた平清盛の三男・宗盛は、安徳天皇と三種の神器と共に京の都から撤退、西へ逃れます。

その後、源義仲に代わって源義経を中心とする平家追討が始まり、源義経が鵯越(ひよどりごえ)を馬で駆け下りた一ノ谷(兵庫県)の戦い、那須与一が船の上で扇を打ち落とした屋島(香川県)の戦いを経て、平氏は最後の拠点として関門海峡の西側にある彦島に退きます。そして平家最後の戦いとして壇ノ浦の戦いが行われるに至りました。

1185年、源義経が各地の水軍を率いて壇ノ浦にて平清盛の四男・知盛率いる平氏水軍と対峙。関門海峡の激しい潮流の中で戦いが行われ、最後は義経側の勝利となり、覚悟を決めた平清盛の母・二位尼(にいあま)は幼い安徳天皇を連れて三種の神器と共に入水、知盛、宗盛など多くの武将がここで命を落とし、平氏滅亡を決定的としました。

 

源義経、平知盛の銅像と関門橋

壇ノ浦古戦場/源義経、平知盛の銅像と関門橋(2006年1月撮影)

現在、壇ノ浦古戦場を望む場所は、みもすそ川公園として整備されています。

公園の中には壇ノ浦の戦いで平氏水軍を率いた平知盛が船の錨を担いだ「錨潜(いかりかづき)」の銅像と、平教経と渡り合った源義経が舟から舟へ颯爽と飛び移った「八艘飛び(はっそうとび)」の銅像が対峙する形で置かれており、ここが歴史的に有名な場所だったことを今に知らしめています。

 

日本の歴史の1ページをめくった大砲も

みもすそ川公園にある長州砲のレプリカ

みもすそ川公園に置かれている長州砲のレプリカ(2006年1月撮影)

みもすそ川公園の中には、関門海峡に向かって大砲が並ぶ姿も見られます。壇ノ浦の戦いの時代には大砲などありませんので、もちろん後世のもの。

江戸時代末期、長州藩は攘夷の思想に基づいて関門海峡を封鎖して長州砲と呼ばれる大砲を設置、海峡を通過する外国船に向けて砲撃を加える武力衝突を起こしました。

最後は連合国に負けたことで、軍備の重要さに気づいて長州藩は薩摩藩と共に江戸幕府の倒幕に力を傾けることになりますが、その史実を後世に伝えるべく長州砲のレプリカが置かれています。ちなみにコインを投入すると砲撃音を出すものもあります。

関門海峡に向けて並ぶ砲台の姿は迫力あるもの。壇ノ浦の戦いとあわせて、関門海峡が日本の歴史の1ページをめくる重要な場所だったことをこれからもずっと伝えていくことでしょう。

 


続いては、壇ノ浦の戦いにとても縁の深いお宮に参詣しましょう。次ページに続きます。