住みたい街 首都圏/住みたい街の見つけ方

どうして成城学園は田園調布に勝てないのか

田園調布と成城学園。いずれも首都圏を代表する住宅地ですが、お屋敷街と聞くと、最初に出てくるのは大体の場合、田園調布。なぜ、成城学園は田園調布に勝てないのか、その理由を地形、広さから読み解きます。

中川 寛子

執筆者:中川 寛子

住みやすい街選び(首都圏)ガイド

渋谷の凋落。
その原因は広域化にあった

渋谷ヒカリエから渋谷駅を見下ろす

これまで地形の制約から水平方向へは拡大できなかった渋谷だが、今後、タワー化することですいちょくほうこうへの拡大を図るという。それが新しい渋谷の個性を作ることにつながればよいのだが

このところ、いくつかの媒体で、以前より渋谷発の流行が少なくなった、吸引力が減ったのではないかなどといった、記事を見かける。流行には疎い人間なので、渋谷発と言われても、あ、そ?なのだが、確かに渋谷に集まっている人間の個性が弱まっている気はする。かつてはある種気合が入ったおしゃれをしている人が多く、自分の好みとは別に、お、がんばっているじゃんと思ったものだが、このところは、見物に来ました~という感じの、オーラのない人のほうが多い。社会全体がそうなっているも思うところがないわけではないが、それにしても、と思う。

 

そして、このオーラ減少には渋谷という街の広域化が影響しているのではないかと思う。不動産や骨董品の価値のかなりの部分は希少性、手に入りにくさに比例する。骨董品の場合には時代を経て残るものが少ないから、古いモノほど貴重であるし、不動産の場合には二度と得難い立地であれば高くなる。だから、不動産広告には二度と得難いという単語は立地とのみ結びついて使われる。設備や間取りの良い物件であれば、二度と作れないということはないからだ。

 

それを街に置き換えた場合、あまり、乗換えが便利ではなく、頑張って早起きしなければ遊びに行けない場所であった時代の渋谷は特別な場所だったはずだ。が、1996年に埼京線が延伸、さらに2003年に東急田園都市線が半蔵門線を介して東武伊勢崎線と直通になったことで、埼玉方面、北関東方面から渋谷へのアクセスは格段に良くなった。この広域化に伴い、希少性、特別感は薄れていった。誰でも、すぐに行ける。その緊張感の無さが渋谷から個性、オーラなどといった輝きを失わせていったのではないか。

 

武蔵野台地上、最も古い田園調布台は
地形的に限定された、希少性の高い街だった

並木写真

田園調布も成城学園も並木があり、住宅があまり見えないという点では写真にするとかなり似て見える。こちらは田園調布

広域化が希少性を失わせる。この推論は田園調布と成城学園にも当てはまる。両方とも首都圏では、というより全国的にも知られた住宅街だが、どっちがイメージが上かという意味で言うと、実態とは全然関係なく、田園調布のほうがお屋敷街のように思われている。例の「田園調布に家が建つ」で喧伝された結果だが、ホントのところ、田園調布は別にお屋敷街を意図して分譲されたわけではなく、分譲された当時は中流以上のサラリーマンであれば、十分買えたという。

 

分譲時期は田園調大正12年、成城学園大正14年で、関東大震災を挟んではいるものの、さほど時期としては離れてはいない。各戸の広さなどで考えても、当時の分譲地であれば、このくらいのサイズは飛びぬけて広いわけではない。しかし、成城学園、あるいはその以前に分譲された洗足よりも、田園調布が首都圏の理想の住宅街に祭り上げられたのかを、特に成城学園と比べてみると、渋谷同様に、街の広さの問題が関わってくるように思う。

 

高低差

田園調布駅駅ビルの駐車場から多摩川方面を見る。右側が住宅地、左側が商店街のあるエリア。明らかに高低が違う

田園調布は田園調布台という武蔵野台地の中でも古い台地上に位置する。実際に行ってみると分かるが、駅から階段を上って住宅街に入り、並木道を抜けると、道は下り、再度上がって、もう一度下がり、多摩川に達する。何が言いたいかというと、田園調布という輝かしいエリアは地形的に非常に限定されているということである。そのため、周辺に拡大したくとも、拡大ができない。大田区内で田園調布は5丁目まで、世田谷区内で玉川田園調布は2丁目までと、町域はそれほど広くない。ついでにいえば、大田区内の田園調布ではお屋敷エリアとそうでないエリアは地形だけでなく、線路でも厳然と分けられており、街の区画は全く異なる様相を見せている。

 

成城学園

こちらは成城学園。桜並木もあり、邸宅もあり、単語として並べても、実際に言行ってみても田園調布に引けを取るところはない

さて、成城学園である。ここの町域は野川と仙川という2つの河川が作る三角形の高台の上にある。しかし、川は三角形のひとつの角を閉じている(実際には川が合流する以前に世田谷通りが閉じている)だけで、台地自体は閉じていない側に向けて広がっており、町域は9丁目という、かなりな数字にまで至っている。しかも、その9丁目が接するのは調布市入間町で、そこまで入れれば、成城学園前駅を最寄りとする、つまり、私、成城学園に住んでいるの!と称せる範囲は非常に広いことになる。当然、希少性は田園調布よりも低くなり、それが田園調布を首都圏ナンバーワンの住宅地の座に押し上げたのではないかと思うのだ。

 

もうひとつ、この2つの街の違いとして大きいのは、同じ武蔵野台地上にあるといっても、田園調布が武蔵野台地の中で最も古い下末吉面に属する田園調布台という、15万年前から7万年前の土地の上にあるのに対し、成城学園がそれより時代の新しい7万年前から1万8000年前くらいの立川面にあるという点だろう。少し前にある週刊誌に「田園調布開発は渋沢栄一の慧眼」とするコメントをしたが、まさにその通り!なのである。

 

駅舎

本文では触れなかったが、田園調布のシンボルとも言うべき駅舎の存在も、ここにしかない風景があるという意味で田園調布をトップにしている理由のひとつだろうと思う

ちなみに建築史家の藤森照信先生は田園調布が郊外住宅の代表に押し上げられ、理想の住宅地とすら思われるようになった理由を「私はひとえに、この町の開発者渋沢栄一の理想主義のせいだ、と思っている」(*)と書いていらっしゃる。私もそれには大いに同意するのだが、プラス地形も大きな要素だと思うのである。

 

(*)「郊外住宅地の系譜 東京の田園ユートピア」 鹿島出版会より

※記事内容は執筆時点のものです。最新の内容をご確認ください。

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