渋谷の凋落。
その原因は広域化にあった
これまで地形の制約から水平方向へは拡大できなかった渋谷だが、今後、タワー化することですいちょくほうこうへの拡大を図るという。それが新しい渋谷の個性を作ることにつながればよいのだが
そして、このオーラ減少には渋谷という街の広域化が影響しているのではないかと思う。不動産や骨董品の価値のかなりの部分は希少性、手に入りにくさに比例する。骨董品の場合には時代を経て残るものが少ないから、古いモノほど貴重であるし、不動産の場合には二度と得難い立地であれば高くなる。だから、不動産広告には二度と得難いという単語は立地とのみ結びついて使われる。設備や間取りの良い物件であれば、二度と作れないということはないからだ。
それを街に置き換えた場合、あまり、乗換えが便利ではなく、頑張って早起きしなければ遊びに行けない場所であった時代の渋谷は特別な場所だったはずだ。が、1996年に埼京線が延伸、さらに2003年に東急田園都市線が半蔵門線を介して東武伊勢崎線と直通になったことで、埼玉方面、北関東方面から渋谷へのアクセスは格段に良くなった。この広域化に伴い、希少性、特別感は薄れていった。誰でも、すぐに行ける。その緊張感の無さが渋谷から個性、オーラなどといった輝きを失わせていったのではないか。
武蔵野台地上、最も古い田園調布台は
地形的に限定された、希少性の高い街だった
田園調布も成城学園も並木があり、住宅があまり見えないという点では写真にするとかなり似て見える。こちらは田園調布
分譲時期は田園調大正12年、成城学園大正14年で、関東大震災を挟んではいるものの、さほど時期としては離れてはいない。各戸の広さなどで考えても、当時の分譲地であれば、このくらいのサイズは飛びぬけて広いわけではない。しかし、成城学園、あるいはその以前に分譲された洗足よりも、田園調布が首都圏の理想の住宅街に祭り上げられたのかを、特に成城学園と比べてみると、渋谷同様に、街の広さの問題が関わってくるように思う。
田園調布駅駅ビルの駐車場から多摩川方面を見る。右側が住宅地、左側が商店街のあるエリア。明らかに高低が違う
こちらは成城学園。桜並木もあり、邸宅もあり、単語として並べても、実際に言行ってみても田園調布に引けを取るところはない
もうひとつ、この2つの街の違いとして大きいのは、同じ武蔵野台地上にあるといっても、田園調布が武蔵野台地の中で最も古い下末吉面に属する田園調布台という、15万年前から7万年前の土地の上にあるのに対し、成城学園がそれより時代の新しい7万年前から1万8000年前くらいの立川面にあるという点だろう。少し前にある週刊誌に「田園調布開発は渋沢栄一の慧眼」とするコメントをしたが、まさにその通り!なのである。
本文では触れなかったが、田園調布のシンボルとも言うべき駅舎の存在も、ここにしかない風景があるという意味で田園調布をトップにしている理由のひとつだろうと思う
(*)「郊外住宅地の系譜 東京の田園ユートピア」 鹿島出版会より