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本田宗一郎の想いがここに!鈴鹿サーキット50周年(4ページ目)

開業から50年の節目を迎える鈴鹿サーキット(三重県)の歴史を振り返る特集。第一章は開業当時の鈴鹿サーキットやF1開催までの歴史を振り返る「黎明期編」。モータースポーツファンも知らない人が多いトリビアも紹介します。

辻野 ヒロシ

執筆者:辻野 ヒロシ

モータースポーツガイド

鈴鹿が作ってきたフォーミュラの歴史

鈴鹿と言えば「F1」を連想する人も多いだろう。F1グランプリ開催の先駆けは富士スピードウェイ(76年、77年)だが、日本でフォーミュラカーレースを初めて開催したのは、鈴鹿サーキットである。
JAFトロフィー

1964年日本初のフォーミュラカーレース「JAFトロフィー」
【写真提供:MOBILITYLAND】


1964年5月の「第2回日本グランプリ」で「JAFトロフィー」と名付けられたレースで14台のフォーミュラジュニア(FJ)規定のマシン(1100cc)が出走している。同大会はポルシェ904とプリンス・スカイラインの名勝負が有名だが、海外招待選手が中心のメインレースとして開催されたのがフォーミュラカーによる「JAFトロフィー」だった。

時を同じくして1964年からホンダはF1グランプリに参戦(第一期F1活動)。65年からはヨーロッパF2の「ブラバム」チームにエンジンを供給。60年代の後半にはこういったブラバム・ホンダのマシンが中心となったレースが鈴鹿でも開催されていた。
ブラバムホンダ

ブラバム・ホンダのF2マシン。当時のフォーミュラカーは葉巻型と呼ばれるオーソドックスな形状で、まだウイングなどの空力パーツは一切無かった。60年代の鈴鹿ではホンダF1やF2のテスト走行が頻繁に行われていたという。



そして、70年代になると500ccの小型エンジンを積んだ「FL500」という入門軽量フォーミュラのレースが始まり、多くの若手がこのレースをキッカケにF1を目指すようになる。この「FL500」は様々な車体製造メーカーを誕生させるルーツにもなり、多くのメーカーが鈴鹿に集った。その流れで、現在も入門フォーミュラのマシンのほとんどは鈴鹿市で製造されている。


今のフォーミュラニッポンのルーツ始まる

トップフォーミュラとしては70年代から「F2000」規定による全日本選手権レースが鈴鹿サーキットで多く開催され、これが後の「F2」「F3000」そして現在の「フォーミュラニッポン」へとつながる。
JAFグランプリ

1974年の全日本F2000最終戦「JAFグランプリ」。僅か10台のトップフォーミュラレースに鈴なりの大観衆だ。トップの黄色のマシンを駆るのは「長谷見昌弘」。その後ろにいるの黒と黄色のマシンを駆るのが、これがトップフォーミュラのデビュー戦となった「星野一義」だ。星野は翌1975年に自身初の全日本F2000王者に輝いている。
【写真提供:MOBILITYLAND】



特に80年代の「全日本F2選手権」の開催に鈴鹿サーキットは力を入れ、シーズン最終戦にはヨーロッパの強豪を招待するなどしてレベルアップを図った。その「全日本F2選手権」では星野一義、中嶋悟らが激しい格闘を繰り返し、F1が開催されていなかった当時の若者たちは国内のスタードライバーたちの姿に熱狂し、彼らがF1へと挑戦する日を夢見ていた。これが1987年から始まる鈴鹿サーキットでの「F1日本グランプリ」、そして後のF1ブームの大きなキッカケとなっていく。
ホンダF2

中嶋悟が駆ったホンダエンジンを搭載したF2マシン



「鈴鹿のフォーミュラ路線」というフレーズで語りつがれる歴史を振り返れば分かる通り、1987年からの「F1日本グランプリ」の開催はバブル経済がもたらした産物ではなく、フォーミュラカーレースにコダワリ続けてきた人たちが作り上げた努力の結晶なのだ。


次は鈴鹿サーキットでのF1日本グランプリ初開催の年、1987年を境に闘いの舞台が分かれた中嶋悟と星野一義について紹介。

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