2ページ目 【集団的自衛権は作られた権利なのか、国家が当然に持っている権利なのか】
3ページ目 【日米同盟を深めるためには集団的自衛権容認は必要? 不要?】
集団的自衛権は「作られた権利」説
集団的自衛権は国家は当然に持つ権利か、それとも国連憲章によって与えられただけの権利か? |
これについては、学説もいろいろとわかれているようです。
集団的自衛権は「作られた権利」であるという説では、そもそも集団的自衛権は慣習的にそれまでも認められてきた個別的自衛権と異なり、概念自体が国連創設までなく、1944年に作られたダンバートン・オークス草案(国連憲章の草案)にもなかったことに着目します。
しかし、国連憲章を正式に作るときになって、国連の集団的安全保障が機能する前に、国家間で集団的自衛を認めてほしいという考え方が出てきた。そういう現実の前に、国連憲章では個別的自衛権だけでなく集団的自衛権があることを規定せざるを得なくなってしまった、というわけです。
国連憲章第51条「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。(以下略)」(下線はガイドによる)
つまり、「作られた権利説」では、国連憲章51条が国家に集団的自衛権を与えたのであって、それは上の下線部にも表されているように、あくまで暫定的なもの。集団的自衛権は国家がもともと持っている固有のものではない、と考えるのです。
集団的自衛権は「国家固有の権利」説
これに対し、国家は当然に集団的自衛権を持っている、という考え方もあります。もう1回、国連憲章第51条を見てみましょう。
国連憲章第51条「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。(以下略)」(下線はガイドによる)
国連憲章によって知られるようなった集団的自衛権だが、暗黙の了解として、国家が同盟を結び、共同で防衛をしてきた歴史がある。そしてそのような関係で行われた2つの世界大戦を経たにもかかわらず、国連憲章は集団的自衛の権利を「固有の権利」と規定している……というわけです。
こうしたことから、国家は当然に集団的自衛権を持っていると考えるのが「国家固有権説」の考え方です。1986年、「ニカラグア事件」の国際司法裁判所判決で「憲章自体が国際慣習法のなかでの集団的自衛権の存在を証明している」という判決も、この考え方を補強しています。
「作られた権利説」と「国家固有権説」のどちらをとるかは大きな問題です。日本は「作られた権利であれば、集団的自衛権は放棄してもいい」と考えるのか、「日本は当然のように集団的自衛権を持っている」と考えるのか、これは議論の前提として極めて重要です。
日本政府の憲法解釈の「?」
日本政府の集団的自衛権についての解釈は、肝心な「日本は憲法上それを持っているか」というところをすっ飛ばしている。 |
さて、日本政府は「集団的自衛権は国際法上持っているが、その行使は憲法上できない」という立場をとっています。
このことは、1981年、衆議院議員だった稲葉誠一議員の質問主意書に対する答弁書のなかで初めて示されました。憲法上、自衛権の行使は「必要最小限」のものに限られるべきであるから、集団的自衛権の行使はできないとしてきたのです。
しかし、この解釈にはひとつの疑問があります。
それは、「国際法上はともかく、憲法上、日本は集団的自衛権を持っているのか」ということがまったくわからないからです。
これをはっきりさせておかないと、「日本は集団的自衛権を憲法上持っており、また[必要最小限ではない集団的自衛権の行使]のしかたも見つかったので、今日から日本は集団的自衛権の行使を限定的ですが行います」という「解釈改憲」をたやすく許してしまいかねないのではないか、という意見があります。
次ページでは、なぜいま集団的自衛権なのか、考えていきたいと思います。