核問題で揺れるイラン。中東の反米イスラム国家としてなにかと話題になる国ですが、どのような歴史や政治体制を持つ国なのでしょうか。イランをめぐる最新情勢などについてもお話していきます。
1ページ目 【イラン・栄光と苦悩の歴史、そして革命】
2ページ目 【イラン独特の政治体制「法学者の統治」】
3ページ目 【イラン政治の今──強硬姿勢はいつまで続くのか】
【イラン・栄光と苦悩の歴史、そして革命】
古い歴史を持つ「誇り高き国」イラン
数多くの国と国境を接するイラン。かつてはオリエント文明の中心地だった。 |
特にエジプトを含むオリエント全体を統一したアケメネス朝、ローマ帝国を圧迫したササン朝の帝国は、古代イランの栄光の歴史として語り継がれています。
そのため、イランはアラブとはまた別の意味でナショナリズムを声高に叫ぶところがあります。アラブのナショナリズムはイスラム世界のナショナリズムと同じように主張されることがありますが、イランのナショナリズムには、古くから栄えてきた民族としての誇りがその上にかぶさっているところがあります。
ちなみにイラン人はアラブ人とは全く異なる民族です。日本では同じイスラム教ということで誤解されがちですが、アラブ人はセム・ハム系語族、イラン人はインド・ヨーロッパ語族の系統です。
そもそも「イラン」とは「高貴な人の国」という意味。このことだけでも、イラン人が持つナショナル・アイデンティティの相当な強さをうかがうことができます。
イランのイスラム化とシーア派の普及
7世紀に生まれたイスラム勢力はイランにも及び、イランはイスラム帝国支配のもとでイスラム化していきます。それまでイランで普及していたゾロアスター教は、急速に衰えていきました。しかし9世紀頃から各地でイラン人の地方王朝が生まれはじめ、モンゴル帝国による支配を経て、イランは再び自立するようになります。
16世紀に生まれ、イランを統一したサファヴィー朝は、イランの国教をイスラム教シーア派と定めます。なかでも、12イマーム派という、ムハンマドの直系アリーの後継者「イマーム」が神隠れ(ガイバ)しているという教えを採用することになります。これによって、イランではシ-ア派12イマーム派を信じる人が圧倒的になっていきました。
ヨーロッパ列強の進出、アメリカとの提携
豊富に眠るイランの石油が、イランを翻弄することに……(写真はイメージ、アメリカ政府サイトより) |
特にイランの石油が注目を浴びるようになってからは、イランはイギリスとロシアの争奪戦の対象とされ、国土は蹂躙(じゅうりん)、国家は崩壊寸前になりました。これを救おうとしたのがパフレヴィー朝の王でした。
第2次大戦後、いったんは民主化のきざしをみせたイランでしたが、パフレヴィー朝の国王は専政政治を図り、石油利権をもってアメリカに接近します。こうして、アメリカの支援のもと国王によるクーデターが行われ、イランは国王による独裁国家になってしまいます。
現在のイランが持つ激しい反米感情はこのできごとに端を発しています。そしてアメリカがイランの内政に干渉するようになり、そのもとで国王独裁政治が支えられているのを見て、多くのイラン人はますます反米感情を抱くようになります。
特に1963年、宗教界からイランの現状を変えようと考える運動が反政府運動に発展し、大規模な暴動に発展しました。この運動の指導者が、現在のイスラム体制創設の父、イスラム法学者ホメイニでした。彼はその後、事実上の亡命生活を余儀無くされます。
イラン革命、イスラム共和国へ
1978年、そのホメイニを誹謗(ひぼう)・中傷する新聞記事が掲載されます。これが政府によるねつ造記事だとわかると、人々は政府に対する怒りをあらわにし、各地で蜂起する人々が相次ぐようになります。これに対する国王の弾圧は、かえって民衆の怒りをかう一方となってしまい、暴動は革命へとエスカレートしていきました。そして国王は1979年出国、一方でホメイニは帰国して革命政府が樹立されます。その後、軍が革命政府に屈服して革命は成立、イランはイスラム共和国となります。
このとき、イランにあるアメリカ大使館占拠事件が起こり、アメリカとイランは国交を断絶します。このとき以来、アメリカにとって友好国イランは一転してアメリカに対する重大な挑戦者となったのです。
次ページでは、独特の思想に基づいた現代イランの政治制度についてみていくことにしましょう。