2ページ目 【戦時中の統制経済を担った岸信介】
3ページ目 【首相に上り詰めた岸の足をすくったものとは】
【首相に上り詰めた岸の足をすくったものとは】
戦犯容疑者として逮捕
いわゆる東京裁判の様子。岸は結局この場に立つことはなく、釈放された(写真はアメリカ連邦政府サイトより) |
その間、米ソ冷戦が激しさをましてきていました。当初はいわゆる「東京裁判」に嫌悪感を示し、反米の姿勢を見せていた岸も、やがてこの冷戦を機に、日本をアメリカと対等な「同盟国」とし、その復活をはかろうと考えるようになります。
後の安保条約改定は、まさにこのときの考えの延長線上にありました。「日米相互防衛」などを明確に規定することで、日本をアメリカの「従属国」から対等の「同盟国」に格上げし、日本の地位を高めることを彼は考えたのでした。
戦犯容疑者から首相に上りつめる
サンフランシスコ平和条約の発効(1952年)によって公職追放解除を受けた岸は、本格的に政治活動を復活させます。まず彼は、保守政党ではなく社会党右派との提携を考えます。彼の社会主義的性格からするとそれほど唐突なことでもないのですが、結局これは不調に終わります。岸は吉田首相率いる自由党に入党し衆院議員に復活しますが、このときから反吉田を掲げる鳩山派と吉田派の抗争が激しさを増していました。
結局、岸は鳩山が自由党から離脱して作った日本民主党に入党、幹事長に就任します。事実上、岸が反吉田派のナンバー2となったのでした。そして1954年、吉田は退陣、鳩山内閣が成立します。
そして直ちに岸は民主党の自由党との合同に着手、1955年に自由民主党結党を実現させ、初代幹事長となります。その後、翌年の鳩山退陣後の総裁選で石橋に僅差で敗れるものの、石橋が病気のため2ヶ月で退陣したため、岸は3代目の自民党総裁、そして首相へと上り詰めたのでした。
岸が安保改正直前につまづいた問題
首相となった当時の岸は低姿勢でした。社会党への刺激はなるべく減らして無事に国会を乗り切ると、彼は東南アジアを歴訪、そしてアメリカにも訪問して首脳会談を行うなど、精力的な外交日程をこなしました。このころから、日米安保の改定作業が両国で行われるようになりました。吉田政権が結んだ旧安保はアメリカ軍の駐留を許すのみで、アメリカが日本を本当に守ってくれるのかどうか、さだかでないものでした。
この不平等性をなくそうと岸は努力することになります。
ところが、岸は思わぬところで失敗をしてしまうことになります。警察官の職務内容を増やす警職法の改正を無理やり行おうとして、世論の猛反発を受けることになります。
出し抜けてきにこの法案を強行採決した岸政権に反発して労働組合は一斉にストに突入、国会は群集によって包囲されてしまいます。戦犯容疑者という過去もあって、このころから岸に「反動政治家」というレッテルが貼られるようになってしまいます。これは岸にとって大きな失敗でした。
そして、自民党からも岸のやり方に批判が集まるようになり、反岸派の力が日増しに大きくなっていきます。有力政治家が閣僚を辞任するなどし、岸包囲網は自民党のなかにおいても徐々に狭まってきていたのです。
もしこの警職法改正問題で岸がつまづかなかったら、安保改正闘争はどのような動きを見せていたのでしょう。気になる点です。
岸の「教訓」は安倍首相にいきるか?
反動政治家のレッテルは消えることなく、国会は何度もデモ隊に囲まれた |
岸は決して理念のない政治家ではありませんでしたが、それよりも「結果」を重視した現実主義者であったということがいえるでしょう。しかしそのことが、彼を「権謀術数の政治家」といわしめる点でもあります。
しかし、その彼でさえ、警職法改正問題で「低姿勢」なイメージを落とし「反動政治家」のレッテルを貼られてしまい、それが空前規模の安保闘争に火をつけることになってしまいました。
安倍首相がこの「教訓」を生かしきることができるでしょうか。今の「清廉・低姿勢」のイメージを今後も守ることができるか。その点を注目していきたいと思います。
★自民党結党~岸政権の歴史についてさらに詳しいことを知りたい人は「自民党の歴史」を見てみましょう!
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