今日はグルジアという国についてお話したいと思います。知らない人も多い?でもスターリンもグルジア生まれ。ウクライナのように旧ソ連圏からの自立を目指しロシアと軋轢を起こすグルジアの内情についてお話します。
1ページ目 【グルジア独立までの歴史】
2ページ目 【民族紛争とロシアの影】
3ページ目 【欧米への接近、ロシアとの対立】
【グルジア独立までの歴史】
「古代からの辺境」歴史のあるグルジア
グルジアの位置。黒海とカスピ海に挟まれたカフカス(コーカサス)地方にある。 |
そして、いちはやくキリスト教が広まります。4世紀はじめには、隣のアルメニア地方とともにキリスト教徒が大勢を占めたようです。ただ、アルメニア人たちが独自の宗派・アルメニア=カトリックを確立するのに対し、グルジアではグルジア正教が盛んになっていきます。
このグルジア地方を含む南カフカス地方の支配者は、ペルシア・ローマ帝国・イスラム帝国、オスマン=トルコなどこの地方の南にある大帝国でした。峻険なカフカス山脈までを領土としてもっぱら南から侵入してきたのです。
もっとも、地域の覇権が変わるときには、グルジアは自立を果たしたりもしています。10世紀から11世紀、12世紀とグルジアは独立していますし、14世紀中頃にはグルジア帝国として勢力を誇っていました。
しかし、依然として南からの圧迫が強かったことは事実です。南に大きな国ができると、グルジアはまたその帝国に編入されていくのです。
この図式が変わったのが、ロシア帝国の登場と発展でした。
ロシアのカフカス山脈越えとロシア編入
ロシアの発展によって、グルジアはカフカス山脈の北から圧迫を受けるようになった。(衛星写真:NASA) |
1801年、ロシアはグルジアの併合を宣言します。もっともここで併合されたのは今のグルジアの東部であって、西グルジア地方はもう少し時間をかけて、それでも19世紀前半までには大半が併合されました。アジャール地方はもう少し遅く、1878年にトルコから割譲されました。
1845年にはザカフカス総督府が現在のグルジアの首都トビリシに置かれ、ロシアはこの地を自国と同様、直接統治することになったのです。
しかし、この歴史ある地域の人々は、近代化の波が押し寄せてくるとともに、ロシアの支配に反抗するようになっていきます。こうして、特にグルジアとアルメニアは、ロシアのなかでも民族ナショナリズムの濃い地域となっていったのです。
一瞬の独立、カフカス地方とソ連編入
第1次世界大戦中の1917年、ロシア革命が起き、帝国が崩壊すると、ロシア兵は引き揚げ、南カフカスはトルコやドイツが侵入してきます。こうしたなかでグルジアら南カフカスの諸国は独立しました。しかし、この独立は長く続きませんでした。トルコやドイツが敗戦し、一時イギリスが進出してくるものの、結局共産軍の前に撤退。1922年、グルジア・アルメニア・アゼルバイジャンからなる「ザカフカス社会主義ソビエト共和国連邦」がソビエト連邦に加入する形で、南カフカスは再びロシア圏内に戻ることになります。
ザカフカスは1936年、グルジア・アルメニア・アゼルバイジャンに分けられます。しかし、この地方で帝国時代から高揚していた民族主義は当時の指導者スターリンによって警戒され、この地域の人々は粛清や民族強制移動などの激しい迫害を加えられることにもなります。
南カフカス地方は第2次世界大戦で主戦場になることはありませんでしたが、多くの労働力が徴集され、人的にも経済的にも打撃を受けることになります。
ソ連崩壊とグルジア民族紛争の開始
グルジアは2つの自治共和国と1つの自治州が存在する。 |
1980年代後半、ゴルバチョフがソ連の指導者になり改革をすすめると、この地域のナショナリズムはますます高揚し、その結果、地域紛争の火ぶたがきられるようになります。
1988年からアゼルバイジャンとアルメニアの紛争が本格化すると、その動きがグルジアにも波及するようになります。1990年、南オセチア自治州でグルジア語の強制化に反対する動きは、やがてこの地域の分離独立運動に発展していきます。
同じ頃、アブハジア自治共和国の反グルジア運動もおきはじめ、これもやがて分離独立運動へと発展していきます。
こうした火種を抱えたまま、グルジアは1991年、CIS(独立国家共同体)に加盟し、ソ連から独立したのでした。
★次のページでは旧ソ連から独立した後の、波乱のグルジア現代政治の歩みを見ていきましょう。