角福戦争、いよいよヤマ場を迎えます。怨念から「闇将軍」と化した田中をバックに宰相の座をもぎ取る大平と、もぎ取られた怨念に燃える福田と三木。そして気になる中曽根の行動。ハマコー先生も大暴れです。
1ページ目 【初めての「党員予備選」と「予備選重視発言」で自滅した福田】
2ページ目 【衆院選の「責任」に端を発した自民分裂の異常事態「四十日抗争」】
3ページ目 【反主流派の「造反」で不信任案可決、史上初のW選圧勝と大平の死】
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【初めての「党員予備選」と「予備選重視発言」で自滅した福田】
勢力としての派閥の確定
70年台後半に入り、福田赳夫と田中角栄、そして田中の盟友大平正芳の対立はいよいよ激化していきます。こうした中、派閥としての団結力を最初に強めたのが田中派でした。それは金脈疑惑での失脚、ロッキード事件での「田中逮捕」という二度の屈辱が、かえって田中派を「鉄の団結」で固めることになるのでした。
そして同時期に派閥の団結を固めたのが大平派でした。ここは早くから派閥として形成された池田勇人の「宏池会」の看板を引き継いでいます。自民党の「保守本流」として、派閥の結束力を高めていきました。
福田派の結束は遅れました。福田自体が派閥政治を嫌っていたからです。しかし、福田派もやがて、怨念の中から派閥の団結を強めていくことになります。
こうして、自民党の中に「なんとなく」存在していたはずの派閥は、「党中党」とよばれるまでの大きな勢力として君臨するようになるのです。
「大福密約」と「総裁再選」の間で葛藤する福田
さて、前回お話した通り、福田赳夫は大平正芳との連携によって総裁になることができました。しかし、事実上、任期終了後は大平に政権を譲るという「暗黙の密約」があった上での話でした。しかし、政権を運営していくなか、福田はなんとか政権を維持していきたい。できれば総裁選で再選を果たしたい。そんな欲が出てくるわけです。
もともと「ポスト佐藤」だったはずの福田が、4年かかってようやく手に入れた宰相の座。おいそれと渡したくはないわけです。
そんななか迎えた1977年参院選は辛勝ながら与党多数を維持。福田は、歴代の総理がそうしたように、基盤固めのための「衆院解散」を考えるようになります。
崩壊した「大福提携」
しかし、その野望をいち早く悟った大平と盟友田中は動きます。集まった衆院解散反対署名は衆院自民党中160名以上。福田も連携と密約の履行によって勢力を温存するか、解散による政権延命を図るか、揺れ動きます。大平にあるときは「総裁選に出ない」、あるときは「解散する」などと、言うことがころころかわってしまいます。
しかし結局、「派閥を抑えられない。やむを得ず総裁選に出る」と大平に通告。こうして大福連携は崩壊し、総裁選での激突となるのでした。
初の「総裁予備選方式」で自滅した福田
今回の総裁選は、福田が導入した「党員予備選方式」での総裁選でした。まず一般党員による予備選で上位2名を選び、そして本選で国会議員が総裁選に投票する、というものです。これは、クリーンな総裁選、そして派閥による「実弾(現金)選挙」ではなく、一般党員の声を重視した政策本位の総裁選にしたいという福田の考えなどから導入されたものでした。
しかし。
福田は、総裁予備選の最中、「2位も含め、予備選で1位を取れなかったものは本選を辞退すべきだ」と発言します。
これは自信の表れだったのでしょう。一般党員の投票によって、現職の首相が、特に大きな失点もないのに敗れることはありえない、という福田の読みでした。
ところが、福田派に比べて結束力の強い田中派と大平派の選挙運動はすさまじいものがありました。対して福田は失点もなければとくに大きな得点もない。こういう状況で、資金力と選挙戦術に勝る田中=大平連合の「本気の怒り」は大きな効果を生みました。
結果、予備選でまさかの大平首位。2位となった福田は、政治家としての発言の責任を考え、本選辞退。こうして福田政権は崩壊、大平政権が誕生することになります。
福田派の怨念、自民党に残った「しこり」
金脈疑惑とロッキード事件で打ちのされた田中に続き、今度は福田が打ちのめされました。なにせ自民党史上初めて「現職総裁が総裁選で敗北」したわけですから。そして福田は田中派・大平派のなかにある「派閥力」を認めざるを得ませんでした。こうして福田派もまた、田中派がそうであったように怨念によって団結し、翌年の「四十日抗争」へと発展する「しこり」を生み出すのでした。