自民党の歴史、角福戦争の第2幕です。ここで思わぬ出来事が起こります。そう、戦後最大の汚職事件といわれるロッキード事件です。事件解明を目指す三木に対し、逮捕という屈辱を味わった田中の戦略とは……。
1ページ目 【「青天の霹靂(へきれき)」保守傍流・三木政権誕生】
2ページ目 【ロッキード事件と田中=大平・福田の微妙な動き】
3ページ目 【三木退陣……しかし思うように得点が伸ばせない宰相・福田】
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【「青天の霹靂(へきれき)」保守傍流・三木政権誕生】
「闇将軍」田中角栄的政治手法の始まり
失脚した田中角栄は大きく傷つき、田中の時代は終わったかのように見えました。事実、それだけ田中政権末期は混迷し、支持率は急降下していました。しかし、田中は息を吹き返します。つまり「今太閤」から「闇将軍」への転進です。それは、戦後最大の疑獄事件である「ロッキード事件」をめぐる恩讐が、田中の権力欲をさらにかきたてることになったのです。
ロッキード事件は、結果として田中を葬り去ることはできませんでした。このときから自民党の「二重権力構造」が始まっていったといえるでしょう。「闇将軍体制」を、田中の弟子である竹下登が、そして小沢一郎が継承していくのです。
「田中後継」をめぐる大平VS福田・三木の動き
さて、金脈疑惑で退陣した田中の後任選びは難航しました。大平正芳は盟友田中派をあてにして公選を主張、一方福田赳夫や三木武夫ら反田中派は公選に反対します。反田中派の公選反対の理由は表向き「実弾(現金のこと)選挙をやめる」というものでした。実際には、勢力と資金力で田中にはかなわないだろう、という考えから公選を拒否していました。
中曽根康弘は、まだ総裁を目指す時期ではないと、ここでは幹事長ポストをにらんで両陣営に探りを入れていきます。
田中の周辺は、長老格・椎名悦三郎副総裁が「暫定総裁」になるよう動き、将来の田中復権に向け、動き始めます。
椎名裁定~小派閥の領袖、三木武夫が政権の座に
しかし事態は一変、椎名による裁定によって後継総裁が決まることになりました。椎名は福田でも大平でもなく、小派閥の領袖、三木を指名します。これを福田と大平がのむ形で、三木が後継総裁になりました。三木いわく「青天の霹靂(へきれき)」人事、でした。しかし、三木には自分にお鉢が廻ってくることは十分予想されたことでもありました。
三木は椎名と並んで自民党の長老格であり、また終始反体制派であり、自民党のイメージ一新には自分が最適である、ということ、そして椎名もそれを望んでいることを知っていました。
こうして三木政権が発足、「角福戦争」は思いもかけない局面をむかえ新たな段階へと踏み出していったのです。
三木の経済・政治改革路線
三木が首相として取り組んだのは、(1)経済政策の「左傾化」であり、そして(2)政治改革でした。しかし、当初はなかなか難航します。まず経済政策として、彼は独占禁止法の改正を打ち出します。「狂乱物価」の背景に大企業のヤミカルテルがあるという話はそれまでもあったのですが、これを一掃しようとしました。
しかし結果は、立案段階ですでに「骨抜き」にされたうえ、結局与党内の猛反対で改正は実現しませんでした。
政治改革として、総裁公選の改正に着手します。「実弾選挙」の解消が狙いでした。そのため党員による「予備選挙」の導入を行おうとしますが、これは実現しませんでした(のちに実現)。
実現したものとしては、政治資金規正法と公職選挙法の改正です。団体献金を制限し、ビラ配布の規制など「カネのかからない政治と選挙」をめざした改革は、かろうじて実現しました。
三木のUターンと凋落の兆し
しかし、小派閥の悲哀です。ここからはどうもっていっても進まない。その後、三木はやむなく主流派との妥協、Uターン(右傾化)をせざるを得なくなってしまいました。その象徴的なものが、公務員のスト権ストに対する対応であり、そしてあくまで私人としてですが、靖国神社の参拝でした。
公務員のスト権は非合法化されていましたが、「スト権奪還スト」が、いわゆる公社(国鉄・電電・専売)・現業(郵便・印刷・造幣・林野)職員労組を中心に巻き起こりました。
本来左派よりの中道政治家三木は、主流派に対抗して彼らを擁護する力はすでに残っていませんでした。結局三木はスト権付与を否定する声明を出し、スト権ストは収束しました。
当初好調だった三木政権の支持率は、1年たたない間に急降下。だれもが、「やはり三木は暫定だ、そろそろ田中の復権か、福田か、いずれにせよ『第2次角福戦争』だ」と思っていました。
その矢先に起こったのが、ロッキード事件の発覚でした。
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