社会ニュース/よくわかる政治

自民党の歴史 角福戦争1・ポスト佐藤(2ページ目)

70年代の自民党は激動に継ぐ激動、そう、田中角栄と福田赳夫の「角福戦争」の時代へと突入します。今回はその序曲、ポスト佐藤争いに勝利した田中の栄光と、彼を待っていた落とし穴を見て行きます。

執筆者:辻 雅之

1ページ目 【「意中の後継」福田への政権禅譲を逸した「佐藤4選」と「沖縄返還」】
2ページ目 【「決断と行動」田中の華々しい勝利と国民的人気、それを襲った「狂乱物価」】
3ページ目 【「コンピュータつきブルドーザー」の挫折……田中政権とは何だったのか】

「自民党の歴史」この連載のトップページはこちら!

【「決断と行動」田中の華々しい勝利と国民的人気、それを襲った「狂乱物価」】

「今太閤」田中政権の発足

沖縄返還すんだ72年6月、佐藤が退陣を表明。佐藤は1ヶ月後の公選に備えて、立候補するであろう田中と福田を呼びます。福田には「激励」。田中には「君子の争いを」。

総裁選には田中・福田のほかに三木・大平も出馬。しかし、決選投票では三木と大平は田中に投じることを約束していました。まだ中間派閥も多いなか、中曽根が不出馬だったことは田中には幸いしたと考えていいでしょう。

佐藤派は次々と「田中派」へ。若手議員だった橋本龍太郎や小渕恵三は佐藤じきじきに呼ばれたようですが、佐藤の説得(どう喝?)も及ばず、逆に田中派入りを事実上宣言。

それでもまだ派閥が強固になっていないこの時期、なにがあるかわからない永田町、相変わらずの「実弾(現金)選挙」。しかしこうなると資金力がものをいいます。ますます田中有利に。

7月の公選は、第1回投票で田中156、福田150、大平101、三木69。決選投票は田中282、福田190。計画通りの田中勝利でした。こうして、田中政権が発足します。

第1次田中内閣は、三木が副総理格、中曽根が通産相として入閣。田中派4名、大平派3名の入閣。福田派は2名のみ。典型的な「論功行賞」的人事になりました。

「素人外交」田中が成し遂げた「日中国交正常化」

こうして佐藤の長い長い政権は終わりました。若い田中、実行力の田中、庶民性の田中。田中内閣支持率は60%台に。

さっそく田中は停滞していた外交に切り込みます。政権発足3ヶ月にして、田中は外相大平とともに日中国交正常化を鮮やかに実現。

とはいえ、田中は何も準備していなかったわけではありません。まず訪中する公明党議員団を通じて中国側幹部と間接的に接触(田中と公明党のつながりは、その後の創価学会批判本事件で「暴露」されることになります)。

自民党・親台湾派(岸らが中心)の激しい攻撃もありましたが、田中と大平は日中首脳会談に臨み共同声明を発表。田中は意気揚々と日本に戻ります。

素人に近い分野の外交に大きく喝を入れた田中の次の狙いは、かれ得意の「開発」でした。しかし、得意だったはずの開発政策で、彼は大きくその威信を傷つけてしまうことになるのです。

「日本列島改造計画」と総選挙

田中は、時論の「日本列島改造計画」を発表。道路や鉄道を整備し、工業立地の再編を狙うという大胆なものでした。

これを狙って土地買収などが始まり、戦後最長景気がおわった日本に、「列島改造ブーム」が。景気は再び上向きました。

しかし、その中身がどうだったのか。田中はたしかに綿密な構成でこの計画に臨んでいましたが、なにせ大所帯の自民党、そして彼が作り上げた官・産・政のトライアングルが、この構想の「芯」から食いちぎっていきます。

結局、具体的な中身を国民に提示できないまま、田中政権は党内基盤強化のため、おきまりの早期総選挙へと動いていきました。

結果は、田中政権の高い支持率とは裏腹に17議席減らした271議席。社会党と共産党が議席を伸ばしました。最初、田中を持ち上げた大都市の今でいう「無党派層」は、じょじょに上昇しつつあった「改造ブーム」の副作用であるインフレに、不快感を示していたのでした。

「狂乱物価」と「オイル・ショック」の襲来

田中は、開発が人の心をつかみ、それが票に結びつくことに関しては、だれよりもよくわかっていたのでしょう。

しかし、経済政策のことについては、正直「疎かった」と断じざるを得ません。

つまり、田中政権はインフレが忍び寄る中でも、積極財政を続け、73年度予算は前年比24%増の11兆円に。74年度予算は25%増の14.0兆円に。もっとも74年度編成当時は、50%増の計画でした。後にいいますが、これは急きょ蔵相に就任した福田が切り詰めたものです。

インフレ気味だった経済は、いよいよ本物のインフレになって国民を襲いかかりました。いわゆる「狂乱物価」です。

1972年4.9%だった消費者物価指数の上昇率は、73年には11.7%に、74年には23.2%へ。人々はパニックになり、1974年のGDPは戦後始めてのマイナス成長(1.2%)となりました。

ここへオイル・ショックがかぶさってきたからたまりません。原油価格の高騰は消費者物価指数という数だけでなく、市民の心理を大きく疲弊させました。60年代後半から日本経済を牽引してきた輸出は、変動為替相場制以降による円高の開始により、停滞をよぎなくされていました。

福田の再台頭と田中政権の危機

このような経済危機を立て直すため、旧佐藤派で田中派に転じた「政策通」愛知揆一が大蔵大臣に任命。しかし、74年度予算編成のさなかに急死。

万事休すかたちとなった田中は、政策転換、すなわち積極財政による国土改造計画の後退を覚悟して、緊縮財政派、しかし自民党一の財政通福田の起用に踏み切らざるを得ませんでした。

こうして福田は「復権」。田中の求心力は低下していきます。

そして経済の低迷で内閣支持率の低下を食い止められない田中。そして発言力を増す経済通の福田。こんななか、田中に決定的な出来事が起こります。

◎栄光もつかの間、田中を襲った前代未聞の「狂乱物価」という大インフレ


  • 前のページへ
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 次のページへ

あわせて読みたい

あなたにオススメ

    表示について

    カテゴリー一覧

    All Aboutサービス・メディア

    All About公式SNS
    日々の生活や仕事を楽しむための情報を毎日お届けします。
    公式SNS一覧
    © All About, Inc. All rights reserved. 掲載の記事・写真・イラストなど、すべてのコンテンツの無断複写・転載・公衆送信等を禁じます