自民党の歴史、第2回目は事実上の鳩山後継となった岸信介を中心に自民党政治を見ていきます。いわゆる「逆コース」と「安保改定」は何だったのか。そして、岸が自民党に残した「遺産」とは。
1ページ目 【鳩山が始め、岸がより洗練しようとした「逆コース」政策とは】
2ページ目 【岸の理念と構想、しかしその実現への障害となる、重いレッテル】
3ページ目 【「保守反動」に対する大衆の疑念を読み切れなかった岸の誤算】
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【鳩山が始め、岸がより洗練しようとした「逆コース」政策とは】
鳩山による「逆コース」路線の開始
自民党初代総裁となった鳩山一郎がめざした目標は2つありました。1つは、吉田茂の「アメリカ一辺倒」外交に対する、「自主外交路線」であり、それはソ連との国交正常化として実現しました(くわしくは拙稿「北方領土問題基礎知識」をご覧下さい)。
もう1つは、保守反動的な政治です。戦前のような国家権力の強大化と、再軍備。吉田政権でも再軍備は行われましたが、それはアメリカや他の保守勢力との妥協によって行われたもので、必要最小限の「自衛力」を持つ程度におさえられました。
しかし、鳩山は憲法改正による本格的な再軍備と政府権力の拡大を目指します。社会党の進出でそれが難しくなると(社会党が憲法改正阻止に必要な3分の1以上の議席を押さえたため)、大政党に有利といわれる小選挙区制導入を試みます(結局導入は見送り)。
さらに、鳩山引退後2ヶ月で崩壊した石橋政権の後、3代目の総裁となり事実上鳩山の後継者となった岸信介は、憲法改正よりもより露骨な形で「反動」政策を実行しようとします。
その1つが、左派系労組との対決路線であり(その代表が「勤評闘争」)、そして警察権力の拡大を目指した「警職法改正」政策でした。
岸政権によって生まれた今の「自民党体制」
しかし、岸政権の時代に、今の自民党システムの根本ができた、ということも言えます。それは、外交路線の定着と派閥の形成です。まず外交路線についてですが、それまでの日本は、吉田が「アメリカ一辺倒」、それに対する反動として鳩山が「自主外交」という形で、一定しませんでした。
しかし岸は、アメリカとの協調、そして日本の国防力強化による日米安保体制の確立が不可避と考え、その路線で外交を進めていきます。
結局、安保闘争により岸は退陣するわけですが、しかし、その後も自民党政権外交の基本路線は岸が確立した「日米安保体制堅持」が前提になっていくわけで、岸により自民党外交路線の基本が定まったという言い方は過言ではないでしょう。(『自民党』北岡伸一、読売新聞社参照)
派閥については、鳩山の引退後行われた総裁公選でじょじょに明確化していくわけですが、それを岸が巧みに操縦、または工作して権力安定を図ることにより、「派閥単位での政治」というものがだんだんと定着をすることになるわけです。
鳩山は高齢で下半身が不自由だったため政治生命の短い暫定的な総裁。石橋湛山は2ヶ月で交代。こういったことから、外交路線と派閥政治の基礎を築いた3代目岸こそが、事実上の自民党初代総裁、という人もいるほど、岸の時代に自民党システムが固まったといえる面が大きいのです。
ポスト鳩山をめぐり、岸と石橋・石井で総裁公選へ
さて、鳩山以降の自民党の歩みを、具体的に見ていきましょう。鳩山政権の2大巨頭、すなわち鳩山と重光葵はいずれも高齢、健康不安もあり、日ソ国交回復を花道に引退。次の総裁候補の最有力候補は岸。しかし、戦後復興期の大蔵大臣として活躍した石橋湛山(たんざん)、緒方派(自由党系)の後継石井光次郎も、名乗りを上げます。
この中で、「民主党系」「自由党系」だった権力闘争は、ここから個人派閥単位の権力闘争へと変化していきます。
まず、自由党系は4つに分裂。まず石井派。ベテラン議員たちを率いる大野伴睦派は態度未定。「吉田学校」系官僚出身派は、石井を支持する池田勇人派と、実兄の岸を支持する佐藤栄作派に分かれました(もっとも佐藤の自民党入党は公選のあと)。
民主党系は、岸派と、鳩山派をまとめた河野一郎派、石橋派に分かれます。生粋のリベラリスト石橋と、マキャベリスト岸、政治理念の異なる2人は、吉田打倒がかなえばいずれ別れる運命だったのです。河野派は岸派を支持。
民主党系の中の旧改進党系(重光系)は大麻唯男派と三木武夫派に分裂。大麻・三木は終戦直後に作られた日本進歩党・国民協同党系をそれぞれ集めたという形に。大麻派は岸、三木派は石橋を押す形に。
岸優位ながらも、過半数はとれない情勢。無気味な存在だったのが「富士山の雪より(態度は)白い(つまり白紙)」とうそぶいていた大野伴睦の存在でした。この膠着状態のまま、総裁公選は近づいていきます。