2ページ目 【日露戦争で日本が得たもの、そして「世界」が得たものとは何だったのか】
3ページ目 【日露戦争「勝利」からわずか40年で日本が「破局」したのはなぜか】
【日露戦争で日本が得たもの、そして「世界」が得たものとは何だったのか】
朝鮮半島をめぐるロシアとの対立の開始
日本が明治維新を迎えていた前後、ロシアはバルカン半島方面にむけての南下を進め(南下政策)、この地域を支配したいたトルコと戦い勝利しました(露土戦争)。ロシアはこれによって多くの領土や利権を得ようとしたのですが、それによってロシアが南下する先には、地中海があり、そのすぐ先には、イギリスが勢力を確保しようとしていたエジプトなどの中東がありました。
そのためイギリスは、ロシアの南下を抑えようと激しく干渉します。結果、ドイツの宰相ビスマルクが仲介してベルリン会議が開かれ、ロシアの南下は一定限度で阻止されてしまいました。
これによりロシアの南下政策はいったん挫折することになり、ロシアはバルカンをあきらめ中央アジアと東アジアから南下していく方針に転換しました。
東アジアからの南下……その先には当然、朝鮮半島がありました。ロシアは日本が清との講和条約(下関条約)で獲得した朝鮮半島の近くの中国領、遼東半島をドイツ・フランスとの共同干渉(三国干渉)によって返還させました。
ここから、朝鮮半島をめぐるロシアと日本の対立が始まっていくのです。
最初は分かれていた日本エリートたちのロシア対策論
朝鮮には、閔妃(王妃)を中心に、ロシアの援助によって日本からの干渉を排除しようという動きが活発になります。しかし、日本の謀略によって閔妃は殺害されてしまいます。そのためロシアは朝鮮の中立化を画策、朝鮮国王は韓国皇帝を名乗り、独立国家であることを名実ともに宣言します。
これを日本にとって不利とみた明治政府は、2つの方針を考えます。つまり、
・ロシアに満州(中国東北部)を譲り、韓国を日本の勢力下に置くことを認めさせる(「満韓交換」)。
・ロシアの南下を警戒するイギリスと組んで、避けられなければ軍事力をも行使して韓国からロシアを駆逐する
というものでした。
ロシアを警戒するイギリスとの同盟→日露開戦へ
まず、満韓交換に基づき、日露交渉がもたれました。しかし、ロシアの軍人たちは日本に対し強硬で、この交換手法は挫折します。ロシアの軍人たちからすれば、たかがアジアの日本何するものぞ、というところだったのでしょう。
一方、北清事変(義和団事件。中国の義和団が列強追放をめざして運動、清王朝も便乗して列強に宣戦布告したが日本・ロシアを中心とした列強軍によって鎮圧されたもの)のあと、大軍を満州から引き上げないロシアに対し、イギリスとアメリカの警戒心は強まります。
そのため、イギリスは日本との軍事同盟(日英同盟)を締結。一方、アメリカも日本に対する経済援助(日本国債の買取)を承諾し、強気になった明治政府もまた、ロシア強硬論に移っていきます。
こうして、1904年、日露戦争が始まることになるのです。
日露戦争で得た日本最大の利益は「韓国支配の確立」
ここでは、日露戦争の詳細を詳しく述べるつもりはありません。とにかく、ロシアは思わぬ苦戦に民衆は動揺、「第1次革命」が勃発。一方の日本も勝利はするものの財政的に戦争継続能力は底をつきかけていました。
こうして日露は(日本に好意的で、戦費もいっぱい貸し付けている)アメリカの仲介で講和条約を結ぶことになります。これがいわゆる「ポーツマス条約」です。
この直前、首相桂太郎はアメリカ陸軍長官タフトと会談、日本の韓国支配とアメリカのフィリピン支配を相互承認します(桂・タフト協定)。このように日本に好意的なアメリカの仲介のもとで、ロシアは抵抗はしたものの、日本の韓国支配を受け入れざるをえませんでした。
こうして、日本は賠償金をビタ一文もらえない代わりに、南樺太の領有権と、韓国の支配権(保護国化)を実現したのでした。
そして、第1次世界大戦の図式が成立
朝鮮半島をあきらめたロシアは、ふたたび、一度あきらめていたバルカン南下に乗り出します。今度は、事情が変わっていました。ドイツ・オーストリアがバルカン南下に乗り出していて、特に台頭する新興大国ドイツを警戒するイギリスとフランスは、逆にロシアを応援することになります。
こうして、朝鮮半島をあきらめたいわば「代償」として、ロシアはバルカン南下政策に対する英仏の協力を得ることになるわけです。
こうして、第1次世界大戦の対立図式……英仏露の「連合国」と、独墺の「同盟国」という対立図式……が出来上がったのでした。
こういった意味で、日露戦争は、世界史的に見ると「第1次世界大戦の対立構造を決定した」ということがいえるわけです。
さて、日本の外交・国防戦略的に、日露戦争はどのような役割を果たしたのでしょうか。次のページで見ていきます。