2ページ目 【ニクソン外交の「平和主義」と「現実主義」】
3ページ目 【ウォーターゲート事件と「帝王大統領制」の崩壊】
【ニクソン外交の「平和主義」と「現実主義」】
ベトナム撤退に見るニクソンの「平和」と「冷酷」
ニクソンは、たしかに、前任者リンドン・ジョンソンが起こした悲惨な戦争、ベトナム戦争を終結させました。しかし、ニクソンは、ただ撤退したわけではありません。まず、撤退にあたって有利な状況を作り出すため、ベトコン(南ベトナム解放戦線=北ベトナムの支援下にあった)への北からの補給路、いわゆる「ホーチミン・ルート」を絶つため、隣国の中立国、ラオス、カンボジアに侵攻しています。
1970年、アメリカはカンボジアで親米派のロン・ノルがクーデタで政権を掌握したことを機に、カンボジアに侵攻、ホーチミン・ルート地帯に大爆撃を加えます。
ラオスにも、71年、同様に侵攻しました。ラオスへの空爆はジョンソン時代から行われていたのですが、ここでも、「地形が変わるくらい」の猛爆撃を行っています。また、北ベトナムに対する北爆も一時再開しました。
これらの軍事作戦は、「ベトナム戦争を終結」させるために行われたこと、これはいうまでもありません。そういう意味では、「平和への第一歩」と評価されることもあります。
しかし、もちろん、この政策は「アメリカにとって有利な形での集結」が目的だったわけで、爆撃を受けた地域に住む普通の人々の人権は、無視され、蹂躙(じゅうりん)されました。
(ちなみにロン・ノルのクーデタはアメリカの介入によるもの、とされていますが、ニクソンは自身の回顧録でそれを否定しています。しかしながら、そのロン・ノルを支援するよう指示したことは認めています。)
突然の中国訪問
1971年7月15日、ニクソン大統領は突如、自らの訪中を発表しました。そして、発表通り翌72年2月、ニクソンは訪中し、毛沢東と握手を交わします。世界は驚きました。なにせ、根っからの「反共主義者」で知られていたニクソンが、「共産主義の原理主義革命=文化大革命」を行っている毛沢東のもとを訪問するのですから。
しかし、ニクソンの戦略はきわめて明解でした。まず、(1)世界一の人口を擁する大国を孤立化させることで生じる不安定さから、世界を解放しなくてはならない。
ついで、(2)ベトナムを支援する中国と和解することで、ベトナム戦争を有利に展開することができる。
そして、(3)60年代末から本格化した、中ソ対立。国境沿いにソ連が兵力を増強し、核弾頭が北京に向けられる中、お互い、「敵の敵は味方」だったわけです。
このことは、キッシンジャーによって極秘のうちに準備され、極東でのアメリカの最重要同盟国、日本にも一切知らされないまま実行されました。
一方的な発表が招いた「ニクソンショック」
同じ年、ニクソンは、もう1つの衝撃を、世界に与えました。一方的な金とドルの交換停止発表、いわゆる「ニクソン・ショック」です。当時、ドルは固定相場制のもと、金との交換が保証され、そのもとでドルが世界の基軸通貨として流通していました。そのからして、この突然、かつ一方的な措置は、世界経済を混乱の渦に巻き込むわけです。
もともと「ドル=基軸通貨」という体制=IMF体制は、第2次大戦後のアメリカの圧倒的経済優位のもとで作られたものでした。
60年代から見られた西欧、日本の復興による貿易収支の悪化、そしてソ連との軍備競争やベトナム戦争での軍事費の膨張によって、IMF体制は、うまく機能しなくなりました。アメリカからの金流出が激しくなったのです。それが金ドル交換停止の背景になったのでした。
しかし、これで世界経済は混乱する。しかしながら、ニクソンは、世界経済よりも、アメリカの経済を優先したわけです。
そして、このプランもまた、大統領専用山荘・キャンプデービットでのごく少数の幹部たちとの秘密会議で話し合われたものでした。
ソ連訪問~SALT:I締結の成功
そして1972年5月、ニクソンはソ連を訪問、ブレジネフと会談します。もちろん、やさしいものではありませんでした。しかし、情勢は明らかにニクソンに有利でした。ソ連は、中国とアメリカ、この2大国を正面から敵に回すわけには行かなかったからです。こうして、第1次戦略兵器制限協定(SALT:I)が締結され、初めて、双方のミサイルなど戦略兵器の保有数制限が実現したのでした。
このことは、米ソのデタントをさらにおしすすめ、冷戦を終結に向かわせた大きな一歩である、という評価が、今でもあります。
一方で、この政策もまた、ニクソンの側近たちの間だけで決められました。ペンタゴン(国防総省)は、むしろ反対していました。しかし、ニクソンは、その強大な権力で、これを押し切ります。
「帝王大統領」への賛辞と反発
このように、ニクソンは、大胆な政策を次々に行い、世界をあっといわせ続けました。国内的人気も高まり、1972年の大統領選では史上2位となる多くの大統領選挙人を獲得して再選されました。しかし、ニクソンの「帝王的」な振る舞いは、時に若者を中心として、人々の反感も買っていました。反ニクソンデモも、大学を中心に巻き起こっていました。
それでもニクソンは、「サイレント・マジョリティ(沈黙する多数)」のために、声高な少数派の声を聴く必要はない、と、こうした声を完全無視していました。
しかし、「帝王」ニクソンへの反感は、身内の共和党議員でさえも持つようになってきていました。独裁的すぎる、身内なのに何の相談もない、などと。
こんななか起こったのが、ウォーターゲート事件だったのです。