2ページ目 【イギリス政党政治も実は波乱万丈だった】
3ページ目 【「二大政党制」イギリスの第3・第4政党とは?】
【イギリス政党政治も実は波乱万丈だった】
イギリス政党政治の始まり
イギリスの政党は、17世紀の近代市民革命(清教徒革命・名誉革命)の時期に生まれたといわれています。つまり、比較的王党派なのが「トーリー」、進歩派なのが「ホイッグ」でした。両者は対立もしますが、1688年の名誉革命では、両者は団結し、国王を追放して新国王を招き入れるなどもしています。
そして19世紀、第1回選挙法改正で多くの市民が参政権を得るようになると、トーリーは現在の「保守党」(今でも新聞などでは『Tory』と表記することが多いのですが)、ホイッグは「自由党」とよばれるようになります。
そして、19世紀中盤~後半のいわゆる「ヴィクトリア女王時代」に、自由党からグラッドストン、保守党からディズレーリという大物政治家たちが出て、イギリスの二大政党政治は確立したのでした。
「女王陛下の野党」という言葉が使われはじめたのもこのころからです。野党は、ただ反対するだけの政党ではなく、いつなんどき政権が廻ってきてもすぐ対応できる勢力であるという意味です。
そこで作られはじめるのが野党の国会議員たちにより作られる「影の内閣(シャドー・キャビネット)」です。別に野党が内閣ごっこをしているのではありません。彼ら「影の閣僚」たちは国からきちんと給料をもらい、政策研究をしているのです。
二大政党制の変ぼう
この二大政党政治は、20世紀に入ると大きく変化するようになります。それは、参政権のさらなる拡大によるものでした。つまり、ヴィクトリア時代に2度、選挙法が改正された後、1918年、ロイド=ジョージ(自由党)の挙国一致内閣は、21歳以上のすべての男子と30歳以上のすべての女子に選挙権を与えます。1928年にはこの男女差もなくなり、完全普通選挙が実現しました(ちなみに現在は選挙権18歳以上、被選挙権21歳以上)。
これにより、大衆の政治参加が実現し、これによって政党地図が大きく塗り替えられることになります。つまりそれは、労働党の出現と台頭でした。
労働組合をバックに、1906年結成された労働党は、一気に勢力を広げていきます。そしてそれは、自由党の分裂もあり、自由党の支持層を「食う」形で進出していきました。こうして、1920年代は保守・自由・労働の三党政治になります。
1924年には自由・労働の連立政権が誕生、そして1931年には労働党のマクドナルドを首相とする挙国一致内閣が成立、これを境に自由党の凋落は目に見えるようになります。
そして、第2次世界大戦によるチャーチル首相(保守党)の挙国一致内閣を経て、1945年の総選挙で、労働党393、保守党213議席に対し、自由党は12議席と惨敗、ここに新たな二大政党制の時代-保守=労働-が幕を開けたのでした。
かたくなに「単純小選挙区」を用いるイギリス政治
1950年以降の下院総選挙は保守8勝・労働7勝となっていて、もちろん他の政党もいるのですが、この二党が政権を独占しています。この現象には、イギリスの「単純小選挙区制」が背景にあると考えられます。
小選挙区制は、日本の衆議院でも採用されていますが、あれは比例代表で復活することもある「併用型」。イギリスのような「単純型」では、ちょっとでも、イギリスらしく競馬でいうと「ハナ差」でも支持が多い方が勝ち。
なので、第三党である自由民主党など、前回選挙で18%の得票があるにもかかわらず、議席はあまり獲得できていません。
なぜ、イギリスは比例代表などを用いないのか……これもいろいろいわれていますが、やはりいわれるのが「政治文化」。「公正なルールで勝負をしたのだから、ちょっとでも勝ったやつに政治やらせてやろうじゃないか」こんなことでしょうか。
ですから、BBCのテレビ番組なんか見ても、選挙で激突した勝者と敗者が、直接握手を交わし、お互いの健闘を讃えあう、そんな光景がよく目に飛び込んでくるのです。日本では、ちょっと考えられないことですね。
イギリスにもたくさんある小政党
さて、そうはいっても、20世紀初頭に二大政党制が大きく変化したように、また新たな政党が台頭してこないとは限りません。今回、第三党である自由民主党、第四党であるスコットランド国民党から、メールを頂くことができました。それぞれがどんな政党なのか、頂いたメールを見ながらここで紹介していきたいと思います。では、次ページへ!