2ページ目 【北部主体のスーダン独立と2度にわたる南北内戦】
3ページ目 【国際社会から「忘れられた土地」ダルフールの悲劇】
【北部主体のスーダン独立と2度にわたる南北内戦】
スーダン独立と第一次南北内戦
第2次世界大戦後、イギリスのほとんどの植民地がそうなったように、スーダンも独立します(1956年)。しかし、独立以前から北部と南部は内戦状態に入っていました。南北融和をすすめる会議も開かれましたがうまくいきませんでした。そんななかできたスーダン政府は北部人の政権だったため、南北間の争いは激しさを増していきます。和平工作も散発的に行われますが不調でした。
1969年、ニメイリ(ヌメイリ)による軍事クーデターが起こります。スーダンは軍事政権下におかれ、共産党の弾圧などが行われますが、一方でニメイリはお金のかかって仕方がない内戦の終結に本腰をいれはじめます。
そして、1971年、国連やOAU(アフリカ統一機構、現在はAU=アフリカ連合)などの仲介もあって、エチオピアのアディスアベバで協定が結ばれ、南北和平が成立しました。これによって、南部の自治権がいちおう承認されました。
経済的な背景による南北対立の激化
しかし、これは真の南北和解にはいたりませんでした。協定以降のニメイリ政権の政策は、むしろ南部人の反発をよぶことになるからです。それはいぜん続く北部人中心の政権のあり方にも問題があったのですが、一番の大きな問題は経済問題でした。
ニメイリは当初、社会主義路線で経済発展をしようとしましたが、共産党弾圧を経て、欧米外資による開発に転換します。原油資源の採掘と、農業の近代化を進めようとしたのです。
ところがこれがうまくいきませんでした。政権側の計画が甘かったか、外資の利益至上主義のためかもしれません。いずれにせよ、スーダンは一気に借金まみれの国になってしまいます。
そこでニメイリは、石油の採掘強化とジョンレイ運河の建設で乗り切ろうとします。しかし、石油の大半は南部にありました。その南部の石油を、北部人政権が搾取する形になったわけで、南部人は反発します。
ジョンレイ運河は、白ナイル川に運河を作って水の蒸発を防ごうというものでしたが、これも南部の湿地帯の乾燥化を招くとして反発されます。湿地帯は重要な農地ですからね。
そして、経済危機のため頻発するクーデター未遂にこりたニメイリは、北部人の結束を強め、南部に背を向けはじめます。南部へのイスラム法導入なども始めようとします。南北亀裂はますます進んでいきました。
第2次南北内戦と北部政権交代
こんななか、1983年に立ち上がったのがSPLM/A(スーダン人民解放戦線・軍)でした。彼らの多くは南部人の政府軍兵士でした。こうして第2次内戦がスタートします。このSPLM/A(スーダン人民解放戦線・軍)という名前でわかるとおり、彼らの目的はもはや南部独立などというものではなく、スーダン国家そのものの変革にありました。ここにもスーダン内戦を単に南北宗教戦争とは言えない所以(ゆえん)があります。
ニメイリはSPLM/Aを無視します。しかし、当のニメイリ政権が1985年に民衆によって打倒され、文民のサーディフ政権を経て、現在のバシール政権が誕生します。
バシールは、当初SPLM/Aとの交渉をしますが、イラクのフセイン政権、リビアのカダフィ政権と友好関係を結んでから強気になったこと、イスラム原理主義組織(国民イスラム戦線:NIF)が政権基盤になったことから、SPLM/Aと事実上交渉をしなくなります。
そうしたことで、政権とSPLM/Aの激しい内戦が、21世紀になるまで10数年間もつづくことになってしまいました。
国際情勢の変化で南北和平へ
しかし、イラクのフセインは窮地に追い込まれ(そして政権崩壊)、リビアのカダフィは急速にアラブ至上主義からアメリカ寄りになっていくなか、後ろ楯を失っていくバシールも強気なことをいってられなくなりました。ここにきてようやく和平の道が開かれるようになるのです。まず2002年に停戦が実現。2003年にはお互いのセキュリティー問題についての合意が成立。2004年にようやく和平協定が調印されました。
これを受けて国連は南北和平の監視のため、1~3万人規模のPKOの派遣を検討しています。
しかし、それなのにこんどはダルフール紛争の勃発。いったいどういうことなのでしょう? 次ページで解説します。