おそらく有史以来の犠牲者を出したスマトラ島沖地震・インド洋大津波。被害国は復興に全力を注ぎ、国際社会も手助けをしています。しかし不幸なことに、内戦状態のため復興が思うように進まない地域が3つあります。一刻も早い内戦解消が求められます。
1ページ目 【歴史に翻弄され、津波で大被害を受けたアチェの悲劇】
2ページ目 【復興を遅らせるスリランカの深刻な民族対立】
3ページ目 【政府さえないに等しい津波被害国ソマリアの内戦】
【歴史に翻弄され、津波で大被害を受けたアチェの悲劇】
むかしは隆盛を誇ったアチェ
震源に最も近く、地震・津波ともに被害が甚大だったインドネシア・アチェ特別州。これから復興に向けて官民一体となって頑張らなければならないのですが、ここは分離独立運動をかかえた紛争地帯でもあります。アチェは100年くらい前まで立派な独立国でした。15世紀終わりに成立したアチェ王国は、大航海時代になってヨーロッパ人がアジアにやってくると、たちまち繁栄します。アチェはマラッカ海峡の玄関口ですから、交通の要衝として発達するのですね。
また、東南アジアのイスラム中心地でもありました。現在インドネシア人の90%以上がイスラム教を信仰していますが、アチェがイスラム教の普及に果たした役割は大きいと思われます。
オスマン・トルコ帝国とも通商をし、それを経て鉄砲や大砲など近代的な武器も所有するようになっていたので、ヨーロッパ列強もおいそれと手が出せません。当時東南アジアを支配しようとしていたイギリスとオランダも「アチェには手を出さないでおこう」と考えていました。
インドネシア植民地化と独立運動に翻弄(ほんろう)されるアチェ
ところが、オランダのスマトラ島支配が進んでくると、いよいよスマトラ島北部のアチェも、オランダに狙われるようになります。かくして起こったのがおよそ40年にも及んだアチェ戦争でした。アチェ王国はトルコやアメリカ、フランスなどに援助を求めますが、トルコはこのとき衰退期でそれどころではなく、アメリカとフランスは静観を決め、結局アチェはオランダ領となってしまうわけです。
さて、第2次世界大戦終了後、インドネシアは独立するわけですが、最初からインドネシアとして独立したのではなく、15の国が相次いで独立しました。そのなかで反オランダ色が濃かったのがスカルノ(デヴィ夫人の夫ですね)率いるインドネシア共和国で、結局この国がインドネシアを統合します。
このとき、アチェはアチェとして独立せず、インドネシア共和国に最初から参加していました。アチェがオランダにさんざん痛めつけられていたから、同じ反オランダ路線のインドネシア共和国に期待したのですね。
ところが、いざとなってみると見返りが何もない。アチェの存在すら否定されてしまい、また大切なイスラム教も軽視されてしまう。そんなことで、アチェでは1950年代、ダルル・イスラーム運動を起こし、自治を要求します。
GAMの反政府活動と中央政府の弾圧
その結果、アチェは独立州の地位を得ることができたのですが(1959)、しかし中央に対する不信と反発は収まらず、ついには分離独立運動へと発展していきます。そこで結成されたのが自由アチェ運動(GAM)です。GAMはゲリラ化し、国軍・警察への襲撃を行います。そこで中央政府は、アチェ軍事作戦(DOM:1988~1998)を展開します。しかし、この過程で数千人のアチェ人が犠牲になり、中央への反発はさらに強まるようになりました。
なんでこんなにインドネシアがアチェに執着するのか。それは、アチェが油田地帯であると言うところにあるのですね。その収入を、中央政府のものにしたいがため、インドネシア政府はアチェに対して厳しい措置を行ってきたわけです。
インドネシア民主化後も予断を許さないアチェ情勢
2001年、アチェ特別自治法が制定され、イスラム教徒に対するイスラム法の適用、石油収入のアチェへの収入確保が規定されました。これは長年にわたって強硬な中央集権をすすめてきたスハルト政権の崩壊に伴うもので、なんとか油田地帯を確保したい中央とアチェの妥協の末できたものでした。
しかし、GAMはまだ過激な活動を進めています。地元有力政治家や政府幹部の暗殺などを行っており、アチェはまだまだ平穏とはいえません。そこへこの有史以来最大級の津波です。
今後の復興に向けて、アハティサーリ前フィンランド大統領が仲介してインドネシア政府とGAMとの停戦に向けての話し合いがもたれていますが、難航しているようです。
両者が何とか妥協してほしいと思いますが、しかしそれだけ、DOM時代の中央政府のアチェ弾圧が激しく、いまだに不信が解けないということの現れともいえます。
●アチェについては「インドネシア・アチェ紛争の泥沼」でも取り扱っています。興味のある方はこちらもご参照ください。