2ページ目 【「和の政治」で自民党の抗争を終結させ、行財政改革に手をつけた鈴木政権】
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【「和の政治」で自民党の抗争を終結させ、行財政改革に手をつけた鈴木政権】
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「和の政治」をかかげ抗争をおさめた鈴木元首相
鈴木元首相は、宮沢喜一元首相を早期に大平派の継承者として、政権を次がせたかったようです。しかし、世代交代を嫌う田中元首相に却下。結局、一番無難な人物として、鈴木元首相が、それまでの抗争が嘘のような議員総会満場一致で自民党総裁に選ばれ、第70代内閣総理大臣になったのでした。
「カネを一銭も使わないで総裁になったのは、僕がはじめてじゃないか」と、鈴木元首相は記者に漏らしたといいます。(升味準之輔著『日本政治史4』より)それくらい、党内抗争がうそのように静まり返ったのです。
鈴木元首相は、さっそく「和の政治」を掲げ、党内融和に力を注ぎます。党人一本でやってきた鈴木元首相には、その自信がありました。そして、そのことが行政改革につながっていきます。
党内融和を実現し、改革に着手
党内抗争が静まり返った自民党を待っていたのは、70年代不況で乱発された国債による財政悪化でした。これを何とかするため、財政改革では、1984年までの赤字国債脱却を掲げます。財政支出をおさえるだけおさえ(マイナス・シーリング)、国債依存度(歳入中に含まれる国債収入の割合)の低下は実現させました。ただ、赤字国債脱却は1984年には間に合いませんでした(いったん赤字国債がゼロになったのはバブル期の1989年)。
そして、行政改革に本格的に着手します。土光敏夫経団連名誉会長を会長とする臨時行政調査会、いわゆる「第二臨調」を設置します。第二臨調は「増税なき財政再建」をかかげ、政府にいっそうの財政緊縮を求めます。また、赤字だった国鉄など三公社(国鉄・電々公社・専売公社)の民営化に先べんをつけます。
これらの行政改革は、鈴木政権をついだ中曽根政権である程度結実し(三公社民営化実現など)、そして日本はバブル景気を迎えることになります。
党内抗争を静め、財政改革・行政改革に本気で取り組む環境をととのえたところが、鈴木政権の一番の功績かもしれません。
外交では日米・日中・日韓と課題山積
しかし外交では、正念場に立たされました。日米同盟問題と、教科書問題です。後期冷戦の中、強硬姿勢をとるアメリカのレーガン政権は、日本のさらなる防衛負担を求めます。厳しい財政再建のなかにいた鈴木首相は反発し、日米首脳会談で、日米は対等な同盟関係にあると主張、これが日米共同声明に盛り込まれます。
これが「日米同盟」という言葉が最初にでた瞬間でした。しかし、これが大きな波紋を呼びます。
同盟とは、軍事同盟ではないかと。国会で追及され、首相は窮します。首相は違うと答弁します。しかし、外務省は同盟には当然軍事的なものが含まれると解していました。
ここに首相と外務省の不協和音が生じ、外相と外務事務次官の辞任にまで発展しました。日本外交の自主性を強調したかった首相でしたが、あまりに拙速、根回し不足なためにおこった事件でした。
また、鈴木首相は教科書問題にも直面します。1970年代に国交回復を一段落させた中国。経済発展著しく途上国から抜け出しつつあった韓国。かれらが、日本の教科書の戦争に関する記述に反発し、日本に抗議するようになりました。
結局、すったもんだの末、鈴木首相は中韓両国に妥協し、教科書の記述を両国の主張とおりにすることにします。このことは、国民のコンセンサスを得てのものでもなく、後々、というか今日まで尾を引く問題となってしまいました。教科書問題を安易に解決に持っていこうとしたのも、対極的に見れば拙速といえば拙速でした。
1期のみで電撃的に勇退した鈴木元首相
こんな鈴木首相でしたが、主流派の圧倒的な支持に支えられ(行政改革に賛同した『風見鶏』中曽根派が非主流派から主流派へ鞍替え)、長期政権は確実でした。しかし、彼は1期の総裁任期のみで政権の座から降りることになります。なぜ、彼は確実といわれた総裁選に再び立候補せず、政権を降りたのでしょう。次のページで見ていきましょう。