2ページ目 【オーストラリアにいまだ残る「総督独裁制」】
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【オーストラリアにいまだ残る「総督独裁制」】
総督の独断で解任されたウィットラム首相
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第1の原因は、オーストラリアの憲法制度にあります。憲法上はイギリス国王の代理である総督が、首相をすきなように任命したり辞めさせたり、議会を解散させることができるなど、絶大な権限を持っているようになっています。
それでも1931年からはオーストラリア人が総督に選ばれるようになっていますし、総督の憲法上の権限はあくまで儀礼的なものにとどまる慣習が定着していて、この制度に特に異論を述べる人はいませんでした。
ところが、1975年、当時のウィットラム首相が、政治の混乱を理由に突然総督(カー度総督)の独断によって解任、議会が解散させられるという出来事がおこりました。イギリス国王の代理人の独断でそのようなことが行われたのですから、一部で「オーストラリアの主権はどこにあるんだ」という声が、特にウィットラム首相の出身である労働党支持者から沸き上がるようになります。
1990年代に入ると、「オーストラリアを共和制に」という声は高まりをみせ、世論調査によっては共和制支持者が反対を上回るようになってきました。こうした流れを受け、1999年、オーストラリアを共和制にするかどうかの国民投票が行われたのです。
しかし国民投票の結果は賛成45%、反対55%で共和制導入は否決されます。これには、ハワード首相(現職)の「分断作戦」が大きく影響した、という見方が有力です。
ハワード首相の出身政党は伝統的なイギリスとの精神的な結びつきを重視する自由党。だから首相としては国民の共和制運動をなんとか抑えたいが、かといって共和制には反対。そこで、「大統領は議会が選出」という案で共和制を提案する、という策にでたのでした。
アメリカのように大統領は国民が選ぶようにしたい共和制支持者が、これに不満で案に反対するだろう、というのがハワード首相の思惑だったわけです。これが見事にあたったというわけです。
それでもそう遠くない将来、オーストラリアの「完全独立」が達成される日が訪れるでしょう。オーストラリア社会がイギリスから名目的であっても「独立」を求める、もう一つの原因をさぐってみましょう。