2ページ目 【社会党と共産党、外交路線の「ねじれ」】
3ページ目 【社民党の功罪と今後】
【社会党と共産党、外交路線の「ねじれ」】
いつのまにかすりかわった、両党の外交路線
1ページ目でお話した通り、当初は右派主導だった社会党。日米安保体制を支持する勢力もあったりしたほどでした。
いっぽう、共産党は戦後間もなく復活してから、当初は国会を中心とした活動をしていましたが、ソ連を中心とする共産党の国際機関「コミンテルン」から、「それじゃあ生ぬるい! 武力革命をせよ!」というお達しがきて、「武力闘争路線」方針へと転換します。
おりしも朝鮮戦争が始まった時期、米軍襲撃などを行った一部の共産党員などもでたため、共産党員は占領軍によってどんどん公職から追放され(レッドパージ)、党も分裂状態に入ってしまいました。
やがて、宮本派を中心とした「国際派」が、「民主主義内での平和革命」路線を打ち出して党内を掌握、ソ連共産党や中国共産党などとくみせず、「自主独立路線」をうちだして交渉をたってしまいます。とうぜん、ソ連や中国との交流の深い北朝鮮の労働党とも、交流はなくなってしまいました。
いっぽう、社会党は当初親米派もいたくらいですから、ソ連や中国の共産党からは無視されていました。朝鮮問題についても中立的な立場だったため、朝鮮労働党の交流もありませんでした。
しかし、共産党が「自主独立」で居直ったものですから、ソ連や中国、北朝鮮としては残る社会主義政党である社会党と交流せざるを得ません。いっぽう、社会党も左派主導となり、その環境が整いました。1960年代ごろから、ソ連・中国共産党や朝鮮労働党との交流がはじまっていきます。
1970年、社会党の第3次訪朝団のときから、朝鮮労働党は社会党を「友党」として扱い、交流は一気に深まっていきました。
こんなエピソードがあります。1978年の第5次訪朝団のとき、キム=イルソン(金日成)主席との会食で、北朝鮮側の人が主席の質問にいちいちハシを置き、起立して答えるものだから、いつのまにか社会党側の人も、主席の質問に同じように起立して答えるようになった・・・というものです。もはやむこうの指導者に畏縮している様子がうかがえます(原彬久著『戦後史のなかの日本社会党』中央新書より)。
こんなかんじだから、北朝鮮が「拉致問題などない」といえば、「そうだ」としかいえない状態だったということだったんですね。
最後のページでは、こうした社会党の「功罪」と、今後について考えていきましょう。