1984年のロサンゼルス大会はその「商業主義」が大きな話題となりました。民間企業をスポンサーとし、華やかで壮大なオリンピックを演出。ボイコット騒動にもかかわらず大幅な利益をあげることに成功したのです。
その後もオリンピックは、スポンサー企業の優遇とマス=メディアへの高額な放映権料で収益をあげていく方式で、60~70年代の暗いイメージを捨て去り、現代最先端にして最大のスポーツイベントとしてふたたび発展の道を歩み始めたのでした。
このような路線を歩み始めたのは、政治に翻弄されることを嫌い、その存在意義をふたたびよみがえらせようとするサマランチ率いるIOC(国際オリンピック委員会)の強い意向がありました。
また、米ソの冷戦が終結にむかっていったことでオリンピックをおおっていた国際的対立じたいが少なくなったことも幸いしたといえます。
1996年のアトランタ大会は商業化の象徴的な大会となりました。コカ・コーラとCNNの本拠地で行われたこの大会では巨額の費用を出したスポンサー企業とマス=メディアが徹底的に優遇され、そうでない企業にはオリンピックという名称さえ使わせないような状況。こうしたなかで、予算規模17億ドル(1700億円くらい)という巨大イベントにオリンピックは膨れ上がっていったのでした。
オリンピックの商業化はその政治色を薄めることには成功しましたが、しかし批判も多くあります。特にソルトレーク大会を決定した際、招致活動をめぐって不正が行われていたことは非常に問題になりました。
またバルセロナ大会からプロに門戸が開かれたことも「魅せて、儲ける」的な商業化の一貫と思われますが、これによってオリンピックの「参加することに意義がある」的なアマチュア精神との両立をどうしていくのかも不透明なままです。
またオリンピックのイベントとしての巨大化は2つの「環境問題」に直面しています。1つは自然環境に与える影響。長野冬季大会ではスキーコース建設をめぐって、シドニー大会でも自然の浜辺での会場設営をめぐって、それぞれ大きな問題が生じました。
もう1つの環境問題は「地域住民の生活環境」との兼ね合いです。オリンピックの巨大化は開催都市や住民に大きな負担となりつつあります。大阪への大会招致をめぐって市民団体「大阪オリンピックいらない連」が活動し、招致失敗に持ち込んだことはこの問題が深刻さを増していることを示しているといえるでしょう。
それに1980~90年代は米ソの冷戦が緩和・集結し大国間の対立がこれまでになく少なくなった時期でした。2001年秋の対米テロ=アフガン戦争で見られたような新たな対立軸がオリンピックに持ち込まれるようなことがあると、オリンピックの商業化で脱政治化が成功した、なんて言えなくなるかもしれません。
【おわりに】
オリンピックの政治化については多くの批判があります。国別対抗の図式を改めるべきという声も聞かれます。
しかし誰も死なない平和な「スポーツ戦争」が、民族・国家のあいだの敵対心を健全なかたちで消化させているという効能もあるのではないでしょうか。
そういう意味では、IOCのとるべき道は「発展途上国のスポーツ振興」にあるような気がします。
豊かな日本にいると想像もつきませんが、貧しい国ではほとんどの国民がスポーツシューズ1つ買うことのできない生活状況におかれています。これでは平和な「スポーツ戦争」に参加することすらできません。
「参加することに意義がある」けど「参加はどうぞご自由に」のままではオリンピックは一部の先進国だけが熱中できるイベントになってしまいます。「参加させることに意義がある」という精神が必要なのかもしれません。