なぜ紀尾井町というのか

 このあたりの地名を紀尾井町という。この町名の由来は紀尾井坂があったからつけられたのだそうだ。江戸時代、このあたりには紀州徳川家、尾張徳川家、井伊家の屋敷があった場所だ。その一文字ずつを取って「紀尾井」となった。
清水谷方向へ下っていく紀尾井坂

紀尾井坂という書かれた説明板が建っていた


大久保利通暗殺事件は『紀尾井坂の変』といわれている。だから、この場所で大久保が暗殺されたのかと思ったが、そうではない。この先が現場になる。
 

清水谷公園へ

坂を下ると清水谷公園がある。かつて、紀伊家と井伊家の間の谷に清水が湧いていたことからこの谷は清水谷と呼ばれていたそうだ。
今は人口の池がつくられている。

桜の季節の清水谷公園。かつては湧水が出ていたそうだ。

不平士族6名が大久保の乗った馬車を襲ったのはこの公園前の道のようだ。当時このあたりはうっそうとした森だったそうで、馬車がやっと通れる細い道だった。
馬車の前に不平士族2名が花を持って立っていたそうだ。馬丁の芳松が馬車を降りて、その2名に近づくと、いきなり短刀を抜き、馬に切りかかった。芳松は命からがら近くの屋敷に助けを求める。続いて、残りの不平士族4名も加わり、馬車を操っていた御者の中村太郎が殺害され、そのあとで、大久保が馬車から引きずり出される。大久保は「無礼者!」と一喝したが、16カ所も切られ、殺害された。
 

大久保利通公哀悼碑

木戸孝允、西郷隆盛とともに維新の三傑といわれた大久保利通だが、明治10年から11年にかけて3人とも亡くなっている。大河ドラマ『西郷どん』でも描かれていたが、木戸孝允は明治10年に京都で病死している。西郷隆盛も同じ年、西南戦争で亡くなっている。そして明治11年に大久保利通が暗殺される。
 
碑の前には解説文が書かれている

贈右大臣大久保利通哀悼碑

清水谷公園には『贈右大臣大久保利通哀悼碑』というかなり大きな石碑が建てられている。
大久保を襲った不平士族6名は自首し、その後裁判で死刑になっている。

ところで、清水谷で起きた事件なのに『紀尾井坂の変』と呼ばれているのはなぜだろうか。
その答えが、先ほどの紀尾井坂と書かれた標識の裏側裏にあった。こんな説明があった。
“大久保利通が殺害された事件はこの坂ではなく、麹町清水谷(清水谷公園付近)で起きています。「紀尾井坂の変」と誤って伝えられているのは灯火を持ち、馬車を先導した人物がこの坂を上っている最中に事件が発生したからです”
とあった。灯火を持って先導したというは、馬丁の芳松だ。なるほど、そういうことか。